都心の杜、愛知縣護國神社で行う結婚式・車清祓・厄祓。ご家族のやすらぎとともに。

リンク集・出版・職員論叢

出版

『愛知縣護國神社蔵版翻刻』『旌忠社』
『翻刻 旌忠社』
(愛知縣護國神社蔵版)

『靖國問題の周辺②』
大東亜戦争終戦七十年記念
『靖國問題の周辺②』旌忠叢書十一 臼井貞光編

『靖國問題の周辺③』
大東亜戦争終戦七十年記念
『靖國問題の周辺③』旌忠叢書十二 臼井貞光編

『旌忠社』
『旌忠社』
入江湑著

『まこと』
 
『まこと』(愛知県出身英霊遺稿集)当神社編

旌忠叢書六『愛知縣護國神社年表』
旌忠叢書六『愛知縣護國神社年表』
岩本典三郎編

『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』
『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』
第一輯当神社編

  • 『偲び草』(名誉宮司井上信彦遺稿集)当神社編
  • 『靖國のこころ-終戦五十周年を迎えるにあたって』旌忠叢書一  靖國神社宮司大野俊康著
  • 『愛知県の御英霊奉斎の歴史』旌忠叢書二 岩本典三郎著
  • 『大東亜戦争について』旌忠叢書三 岩本典三郎著
  • 『國を守る心』旌忠叢書四 岩本典三郎著
  • 岩本典三郎宮司遺詠『旌忠歌集』旌忠叢書五 岩本典三郎著
  • 『補訂 愛知縣護國神社年表』旌忠叢書六 岩本典三郎著
  • 『定本岩本典三郎歌集』旌忠叢書七 岩本典三郎著
  • 『靖國問題の周辺』旌忠叢書八 臼井貞光編
  • 『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』第一輯 当神社編
  • 『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』第二輯 当神社編
  • 『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』第三輯 当神社編
  • 『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』第四輯 当神社輯 当神社編
  • 『愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書』第五輯 当神社編

すべて非売品でありますが、頒布(実費)については当神社にお問い合わせ下さい。

職員論叢

愛知縣護國神社名誉宮司 臼井貞光

愛知縣護國神社禰宜 笠井剛

愛知縣護國神社権禰宜 鈴木崇友樹

護國神社の今

戦後生まれの神職の想いを、記させていただく。
愛知縣護國神社は、天皇陛下からの幣帛(饌)料御奉納を、戦後十三回賜り、愛知県下、勅祭社である熱田神宮は別として、県下行幸などに幣饌料を賜る旧国幣社と比べ、護國神社がその回数においては、最も多いのである。
天皇陛下が、如何に英霊に深き思し召しをおもちか。
そして思いをめぐらすのは、勅祭社靖國神社春秋の例祭に御勅使ご参向のこと。年に二度、例祭の御差遣を戴かれるのは、靖國神社のみである。全國の神社で、数の上一番多い、陛下の思し召しを戴かれるのは、靖國神社なのである。
数の問題ではないと、お叱りを覚悟で記すは、世情の喧騒により、御親拝の遠のきを拝察するものとして、御勅使ご差遣をお忘れか。しかも一番多きことをご存知か。と、思うが如何。

社頭で、ご遺族の参拝が少なくなり、大変ですね。と、遺族のお宮護國神社と、当然のようにおっしゃる。
護國神社は、何時から遺族のお宮になったのだろう。
私見、やっぱりこれもマッカーサーか。コーンパイプを咥え、厚木に降り立ったマッカーサーは、当初靖國神社を解体して、ドッグレース場にする計画であったそうだ。が、ブルーノ・ビッター神父(上智学院長)の進言で、取り止めた。
マッカーサーは、戦没遺族のお参りする悲しみの聖地破壊を、取り止めるという、さも遺族の心情を察し、靖國解体を思い留まったかのように、ビッター神父の演出のままを、演じる。
ドッグレース場建設を止め、国民総ての神社ではなく、遺族のお宮、靖國神社を存続させることで、極悪非道の将軍となるを由とせず、さも善良なる将軍を装うのである。
遺族に想いを寄せる、善良なる将軍をして、わが国戦後政治は、連合国の偽善に、あろうことか、国民総てがお参りせねばならぬ神社を、ご遺族を盾に、恣意解体の企てにまんまとやられるのである。

知っていただかなくてはならぬは、靖國神社や護國神社が何故に神社であるかである。
われらが先人は、靖国寺でも靖国廟でもメモリアルセンターでも国立追悼施設でもなく、戦没者の神霊を神社にお祀りしたのである。神社でなければならなかった。それは、五十年や百年の話をしておるのではない。五百年後、いや千年後、大東亜戦争で亡くなった方々を、何処にお祀りされているかを想えば、日本人の脳裏に靖國神社が護國神社が浮かぶ。これが神社とされた意である。もし千年後に靖國護國が無い時は、氏神さまも伊勢の神宮も無い。その時は、この国の無い時である。この国は、この国があれば、神宮も氏神さまもあり、靖國神社・護國神社もある。これが、この国の文化、この国の姿である。そのことこそが、明治大帝の思し召しであり、明治の御代の見識である。
しかしながら、門前に市を成してこそが神社とすれば、今、愛知縣護國神社は未だ神社ではない。名実共に、門前市を成す神社にせよという明治のミッションは、果たされているとは、いいがたいのである。
英霊は、何を希い、身命を賭されたか。日本国子孫繁栄を望んでおられた外に、何があろうか。
ならば、先は神前挙式を勧奨の外はあるまい。と、平成二十二年は、一六九件を奉仕。安産祈願は、二二件であった。
明治のミッション遂行は、未だ遠く、戦後生まれの神職のレポートである。

社報「靖國」平24・3掲載

「愛知県下英霊社忠魂碑等調査報告書」刊行について(臼井貞光)

本調査と報告書刊行は、第一輯巻頭に岩本宮司が「刊行に際して」に述べる如く、英霊を教へぬ、戦後国家の過失が忠魂碑等の物理的風化を招く現況を、ただ嘆くばかりでなく、先づそれら施設の存在確認が「次代の国民への精神文化伝承の役を果たす」ことを祈っての、企てであった。

愛知県神社庁と愛知県遺族連合会の協力で、神社境内と寺院・公園等に在る施設一四〇〇余を第二輯までに調査報告した。しかし、その倍の存在が予測され、独自作業の人的・時間的限界の中、在野の研究者の協力を得ることができ、殊に陸軍墓地調査の進展はめざましく、第三・四輯刊行により完璧なる調査報告を終へた。

続刊は、未収録の施設の調査報告は本より、本報告書に「等」とある意を以て、英霊つまり御祭神事績の基礎資料となる調査記録書としての継続をも展望してゐる。第五輯はその端緒を示した。神社史(誌)編纂をも見据ゑ、明治維新の御祭神本格調査の開始である。

報告書公刊により「軍馬軍犬軍鳩慰霊碑」のやうな特異の確認だけではなく、忠魂碑・慰霊碑の存在の無縁化、つまり祭祀を受けられない施設の情況に比して、英霊奉斎社は、その様態が「祠」といはれる境内社の類すべてに「例祭」の如く、祭祀が間断なく今日まで営まれてゐる現況報告を、特筆としたい。

靖國・護國が神社であり、われらの先人が、やすくに寺・やすくに廟や国立慰霊堂・追悼施設とせず、戦没英霊を「神社」に祀った見識を、見事に証左するのである。

小職は、この調査で右を確信し、「神社」に戦没英霊を祀った先人が、五十年や百年の話をしてゐるのではなく、この国に氏神さんや神宮が千年後にありますやうに、靖國・護國も必ずあるとする、「神社」奉斎を明解に合点した。これを、明治の見識として、日々社頭で語るは、勿論方便ではあるが、靖國・護國がない時は、氏神さんもない、その時はこの国のない時だと、この国があれば、氏神さんも神宮も、靖國・護國もある、といふ訳である。

調査継続の端緒は第五輯で示した。具体的には、

  1. 未収録施設等の調査記録の網羅は、使命である。
  2. 右に付き、県外施設等調査の驚きを白すなれば、創建当初の御祭神に関して、戊辰の役戦没者の墓碑が、新潟小千谷に存在することは、五十年前岩本当時禰宜の調査で、承知はしてゐた。しかしながら、地震被災に小千谷を見舞はぬ不明を恥じるも、郷土史家等の指導で、しかも民間の手で見事な復興の現況は驚きであり、記録報告は当方としても義務と心得た。
    他県の陸軍墓地等に存在の当社の御祭神墓碑等調査は、緒に就いたばかりであるが、隣県靜岡、あるいは大阪、西南の役に名古屋鎮台出兵の熊本に至っては、すでにかなりの記録報告をすることができる。
  3. 併せて軍人像の調査は、県内についてはほぼ報告し得たと思う矢先に、人知れず博物館収蔵庫にねむる、尊像発見も驚きであり、調査継続の指示を思ふものである。
  4. 更に、戦中の金属供出記録に添付された写真等資料に注目し、金石文の消失した「金」は貴重なる調査対象として関心を抱かせてゐる。

以上の如く、報告書刊行の企ては、新たな展開を見せてゐる。

それは、当初岩本が愛知県だけではなく、全国護國神社会に提案した全国調査の喫緊急務の訴へは、当方の調査二十年・五輯刊行を経て、自明の展開であらう。弱小一社での事業継続は、極めて困難であるが、われらが先人の事績消滅ともなりかねない危機的現実は、先は調査の継続の外になく、次に報告の場を用意せねば、と継続の意思表明だけでもといふ思ひが、第五輯までの上梓感慨である。

なみだ(臼井貞光)

東日本の大震災、まさに国難、テレビを見て、とにかく涙が出てしょうがなかった。

余震の続く中、関東にも大きな地震があった。まもなく、東京都下八王子の親戚に連絡が付いた。無事、被災はないが。計画停電で真っ暗とのこと。お勤めの神社で「献燈祭」の蝋燭の在庫はありませんか。早速確認すると、約一〇〇〇箇は在るとのこと。半分を送った。幸いにもあくる日に着き、あんなに平ぺったい、あんなに安定な蝋燭があるんだ。ありがとう。でもやっぱり火だから、器に入れて気を付けて使わせてもらいます。と、お礼の電話があった。我が家の救援物資第一便の話である。

長女の嫁ぎ先、姑の母親、埼玉で一人暮らしの祖母に、見舞いの電話。蝋燭はありますか。何か入用のものは。孫の嫁の電話に、充分です。ありがとう。年寄りに蝋燭は危ないから。ご心配なく。真っ暗だけど、戦中戦後も真っ暗だったよ。その前は、夜は真っ暗。そうだったのだ。静かに、冷静に、自らも、大騒ぎの世の中を、覚めて淡々と見る言葉に、感動したとの事。

機会があって、先輩ご夫妻と会食中、奥様の言葉。被災のテレビを見て、つい口から出たのよ。内で主人に向かってだからよかったんだけど。わたし、東京品川、大崎に住んでたんだけど、坂の上から北を見たら、空襲の後、なんにも無かったのよ。大津波は大変だけど、火災の無かったところは、瓦礫だけど有るのよね。て、いっちゃたの。わたし、国民学校の四年生。靖國神社て、二五〇万だっけ。空襲で亡くなった人って一〇〇万かしら。未曾有ていうけど、桁違いね。

先輩夫人の話は、負けるな復興、先人を見よ。であろう。が、戦後生まれの小職は、テレビの前でとにかく涙が出、気力萎え、励ましの言葉など見つからぬ。

だが、本当に先人は強い。こんなに便利な蝋燭があるんだと、関心する余裕。更には、ついこの間まで、夜は真っ暗だったんだ、と。そして、戦災のことを思い出しなよ。

そんな中、元気が出た。神道青年全国協議会役員諸君の来社。聞けば、被災支援活動の協議を我が社務所で開催の為。名古屋が集まり易い、名古屋駅に近いという話。我が社で神道青年全国協議会役員会とは、驚いた。先人もだが、若人も強い。

偶然に、岩手県の神職さんのブログを見た。すごい、本当に、すごいぞ若人。涙が溢れた。被災地の現況。救援活動の姿。今日(三月二十四日)もブログー夢酔戯言ーを見て、涙が出てしょうがない。やっぱり志と情熱。ご覧あれ、涙がでますぞ。

神饌「お水」への関心からの出発(臼井貞光)

緒言

 この国を語るとき、恵まれた自然は、父祖達を育み、彼らはその豊かな自然を大切にした。父祖達は、優位なる地理的条件に、ただ胡座をかいてきたのではない。水清き緑豊かな瑞穂の国は、父祖達の営為であった。東雲に起き、日の出を拝み、日々の感謝と祈りの裡に、自然と共に労き励む父祖達への賜物であった。それは、われ等への贈物でもあった。
 C.W.ニコル氏はいう。
 神宮は古いものを守っているだけでなく未来を信じている。(註1)

千年の森

 神社界はこれまで、現況を思うと密やかにといわざるを得ないが、自然破壊をわが事として、『神社新報』紙上などで、緑のキャンペーンを展開し、緑化問題の取り扱いは、一段トーンの高い紙面作りがなされており、もちろんわれ等も、植樹祭など緑化推進に力を入れた。それは、われ等自身が自明のことであるにもかかわらず、無関心であった「鎮守の杜」を見直す、アイデンティティの回復であった。日本人のよって来たる「ふるさと」、父祖より持ち続ける、われ等自身を知るいわば永遠回帰の一つの回路の自覚であった。
 今大きくその流れは、それを意識的に捉え、二度の伊勢式年御遷宮を経る奉賛運動の中、着実な共感を得て、一昨年(平成六年)秋、伊勢で行われたシンポジウム「千年の森に集う」にそそがれた。わたしは残念なことに、社務の都合上参加できなかったが。『月刊若木』、『神社新報』紙面で詳しく報じられ、その集いが地球環境への提言「伊勢宣言」(註2)として採択されたことを知った。宣言は、グローバルなスケールで提言内容が語られ、その構想は、われ等に神道人としての誇りと共に、大きな責務を課しているものであった。千年の森構想の認識前提は、まず「われわれはもういちど文明の母胎としての《森》を想い起こさなくてはならない」とし、
人類は自然によって育まれてきたが、とりわけ森林は人間にその恵みのすべてを与え、文明構築の基礎をもたらしてきた。
又、

わが国数千年にわたる文化と歴史を支えてきたのも、いまなお国土面積の七十パーセントを占めるゆたかな森林であった。このことは、わが國の神話が物語っている。稲作をはじめ、植物の成長には太陽の光熱と水による光合成が必要であり、それがまた万物の生命の根源であるが、われわれの祖先は、太陽女神アマテラスとその弟のスサノヲという二人の大神の協力が、そのような豊饒をもたらす

と記し、同時に

古代諸文明の消滅や崩壊が物語っているように、森林の乱伐による環境破壊は、人間生存の基礎を根底から脅かす

と警鐘を鳴らす。
 更に宣言は、「保続可能な森林は、保続可能な環境を創造し」、「《保続可能な森林》の概念にもとずく『千年の森づくり』構想を提示したい」と、その概念を示す。

保続可能な森林とは、かつて《神の森》として人々が認識していたような、生態系をそれ自体で成立させ、支配している諸法則にもとずいて森林を保全し、それによってわれわれ自身生命維持を保証するとともに、そこから得られる恩恵や所産を持続するシテムである

 宣言を読み、シンポジウムの記録に目をとおすうちに、父祖の営為をどのように 継承していくか。子孫にこの国をどう渡すか。神道人の義務の重きを、更めて肝に銘じた次第である。
 それ程に、日常の環境は悪であるにもかかわらず、現状の認識を楽天的に展望し、敗戦の荒廃から短期間に経済大国となった日本及び日本人を一見信頼したかのような日本論。経済成長世界一、急速汚染も世界一なら、公害克服世界一。無公害先進国日本。必ずや無公害テクノロジーの開発も、世界一になるに違いないという。贔屓のひきだおし日本論をよく耳にするが、神道ブームの中、その期待までもが、わが神道人に向けられているように思い、犯罪者の意識にも似た後ろめたさを覚えるのは、わたしだけであろうか。
 しかしながら、林務に携わるわけでなく、農業に勤しむわけでなく、ただ環境問題といえば、職場も家庭も、 プラスチックと紙ゴミの山を前に、分別収集に協力することぐらいしか手立てを思わぬ日常生活の場に「鎮守の杜に視線をすえよ」という啓蒙は、今日確かな支持を得て来ているように思う。「鎮守の杜」は、確かに緑化運動の思想的方向性を具体的に視覚化させ得る。そして、その視線は、自ずと環境問題へ導かれるであろう。われ等の論理に破綻はないが、わたしは神道人として、更にその方向性に力を与え得るもう一つのキーワード「水」を、「伊勢宣言」に見る。
 それは、「陽光と水による光合成が生命の根源」という文言にある。動物による二酸化炭素の排出が植物の光合成により酸素が供給され、動物の生命が維持されるというリンクは、陽光と水なくしては成り立たない。今日小学生でもよく知る常識である。
 われ等の「いのち」は、太陽の恵み、即ち「日の大神の恵を得てこそ」と、宣長翁の言葉を日々となえ、神恩に感謝をあらわす。神々も、われ等も、ものみな総て広大無比なる天照大御神の恩頼に生かされ、育まれる。陽光は、水を変容させ、時に暴風雨となり、時に炎天の日を続け、われ等に試練を与える。そして、ある時は慈雨をもたらす。
 「伊勢宣言」は、植林の神さま須佐之男命を「生命の豊饒を約束」する「水の支配者」として紹介する。それは、この物語が森林に関わる神話的思考として語られていることを教える。が、私の想いは、水の支配者須佐之男命というより、天照大御神の息吹のまま姿を変える水そのものを、想起する。水は、須佐之男命の化身、変幻自在なる水こそ、須佐之男命である。天照大御神の息づかい、呼吸、それが須佐之男命であり、そ化身は、水。水の変容は、須佐之男命の姿であり、それは、われ等の「いのち」の位相でもあるように思うのである。
 スサノヲ論は別稿に譲るとして、「千年の森に集う」座談会で、宇宙より地球を見た光景を語る。秋山豊寛氏の言葉を引いておこう。

私は宇宙に行って森のあるところには雲があるということが良くわかりました。(註1)

 ここでもわたしは、須佐之男命の姿である雲、即ち「水」を想起するのである。

お水

 周知の如く、大東亜戦争において、南方の島々で戦場に斃れた英霊が皆「おっかあー水」と喉をかきむしり命絶えたと、生還者は語る。
 昭和六十年、玉砕地サイパン生き残りの戦友により、愛知縣護國神社境内に「献水像」建立の申し出があった。
 戦友は、すでに二十年、サイパンにて数十回の遺骨収集、慰霊行事を行っていた。慰霊行事は、毎年護國神社社頭に遺族を招き「献水祭」を斎行した。その祭典は、遺族が各戸より持参の「お水」を、玉串に代え、拝殿に設えた献水器に注ぎ拝礼をするのである。祭典後、戦友は献水器より「お水」を水筒に移し、その足で名古屋空港から、サイパンに飛び立ち、現地で、更めて慰霊の行事を執行するのである。戦友は終戦四十周年を記念して、現地と護國神社に「献水像」建立を思いたった。神社は申し出を諒とし、積極的に受け入れを検討した。献水像は、境内南の杜手水舎奥に建立され、神社は、終戦記念日八月十五日に、恒例祭としての「献水祭」斎行を決めた。そして、遺族・戦友・一般にいたるまで広く献水基金を募り、当日「お水」を持参しての参列を呼びかけた。
 その年、七百名に上る奉賛者を得て、執行された。まず第一に賛同者の多きに驚いた。当日の朝、拝殿に献水樽を設え、祭典前に参列者個々の持参する「お水」を注いでもらう。祝詞の後、その「お水」 を斎主が汲み上げ、祝詞殿に設けた献水器に注ぐ。社殿での祭典を終え、献水器の「お水」は、輿に乗せられ、参列者代表が奉持し、大麻を先頭に献水像まで、献水行列が進む。献水像前に安置の「お水」は、参列者それぞれがあらためて柄杓で汲み、献水像に注ぐのである。
 境内は、かつてない報道陣のカメラのフラッシュやライトを浴びた。驚きの第二は、当日夕方のテレビニュースである。毎年、そのニュースは靖國神社国家護持反対集会一色であったのが、その年は「献水祭」一色となったのである。
 第三は、「献水祭」後の正午の黙祷行事である。以前は愛知県主催の戦没者追悼式が八月十五日に行われていたこともあり、黙祷行事の参列は、わずか数十人であった。ところが、その年は拝殿をあふれ、大前になんと五百人余の参列を得たのである。
報鼓所役のわたしは、一分間大太鼓を打ちながら、悔いと感動が交錯した。何故もっと早く気が付かなかったのか。清き水豊かな祖国に生まれた英霊、故郷の水を乞い散華した御祭神に、一杯の水を捧げる人々の姿に涙した。
 その日から、社頭でも社外でも、機会あれば、声を大にして話した。この国を離れて、戦場に赴いた人皆、故郷の水に飢えたことを。それは、南の島々だけでなく、支那大陸も、インドシナも、野戦病院でも、皆故郷の水を夢に見たと。今でも海外旅行に水を持参することを思えば、護國神社にお参りの時は、必ず一杯の「お水」をお持ちいただき、お供え下さい。 そうして、お帰りにはその「お水」を半分だけ「献水像」に注ぎ、半分は「おさがり」 としてお宅にお持ちいただき、ご家族皆様で、お茶でも上がって下さい。
 そして、護國神社にだけ「お水」がいただきたいのではのではありません。市町村や地域での慰霊祭にも、必ず「お水」をお持ち下さい。愛知県中の英霊のお祀りに、何処でもお家の「お水」が捧げられるようにしたいのです。県内中、機会ある毎に何処でも話した。
 われ等の願いが通じ、今各地に献水行事が営まれ、幾つか献水像の建立を耳にした。そうして、各家の「お水」に囲まれた忠魂碑の慰霊祭に招かれる。愉快な話題もある。「お水」と共に、英霊奉斎社には特殊神饌「梅干」「煙草」が供えられることも話してきた。神主さんのいう通り梅干も煙草もたくさん上げてもらったが、煙草はこれでなくてはならぬ、と指をさす煙草は「ピース」であった。煙草はこれ以外は駄目だ。昔懐かしい銘柄の煙草がなくなった今、これを上げなくてはならない。ピース即ち「平和」というわけだ。お陰で社頭でも「ピース」の御供がふえ、時々お賽銭箱に煙草が上がっていたりする。
 そうして、平成七年八月十五日。大東亜戦争集結五十周年記念の「献水祭」に、県下の「お水」は参列者に任せ、われ等としては全國の「お水」をお供えしようと、名水百選等手を尽くして調べ、お手紙で献水をお願いした。全國五十五ヶ所、北は利尻島、南は沖縄の「お水」をお供えいただいた。綺麗な印刷に包まれたペットボトルに入った市販のもの、 わざわざ何キロも水汲みに出かけてポリタンクにつめて送って下さったもの、英霊に「お水」をの一念がこんなに多くの方々に通じ、有り難さが身にしみた。電話で、毎年やるの、いいよ来年も送るよ。電話のある度に、感激した。

お米

 森を見直そうというキャンペーンは、鎮守の杜を預かるわれ等の呼びかけとして、相応しい運動であるのではなく、むしろ、今それを進めねばならぬ恥ずかしさを、われ等はまず自覚せねばならない。
 本年三月三日、大分県大山町田来原で「新しい森づくり─全国の神社から苗木あつまり植樹祭」が開催され、苗木二○○○本の植樹を終へ、ニコル氏は言ふ。

「鎮守の森はそれぞれの郷土の遺伝子を守ってゐる。ずっと守ってきた遺伝子が、この地でのびのび生きる。さうして鎮守の森の心も広がる。─さういふことを、神社の人達は忘れないで」。(註3)

 わたしは、これを報じる『神社新報』の記事を読み、日本の自然を愛し黒姫に住む外国人の言葉が身にしみた。この植樹祭に賛意を寄せて苗木を贈っている、われ等神道人に、「鎮守の杜の心」を諭しているのではないか。
 田来原の植樹祭は、土壌の痩せた経済優先の針葉樹林が平成三年の台風十九号で甚大な被害を受け、小動物が生息するゆたかな緑のダムをつくるための運動であるという。そして、大山町長三苫善三郎氏 は挨拶に立ち「台風以後、だんだん水がなくなった」(註3)と話す。
 「水と緑と土は同義語である」(註4)という至言で知られる富山和子氏は、「千年の森シンポジウムパネルディスカッション(註3)」でもパネリストとして発言をされた。(註5)

自分の水は、自分で作るという思想が、江戸時代まであった ー中略ー 尾張藩が木曽の山々に“木一本、首ひとつ”という厳しい取締りをしました。しかし、上流の水源地である長野県の木曽村あたりの奥地に対しては、藩も山村の役割を知っていますから、それに見合うだけの金品やお米を分け与えていました。ー中略ー 明治以降、水は自然物になってしまいました。今、私たちが使っている水道の水は、山村の人たちが 木を植えて山を守っていることの成果です。その費用も含めた彼らの労働に対して、我々は水道料金を払っていません。

更に富山氏は、「日本の山は、米がつくってね」というお年寄りの話に、示唆されたことを語る。

山村のあの庭先農業と言われる零細な段々畑に支えられて、残りの労働力として次男、三男が裏山に入って行った。これが昔の山村の姿であった。 ー中略ー お米に愛想をつかして村ぐるみ山を下りました、といったニュースが報道されます。すると私は、廃墟になる段々畑のことを思い浮かべるのではなく、山のことを思い浮かべます。山も廃墟になるー中略ー 洪水が増えて、水資源は減る ー中略ー それが山村経済を何が支えたのかという意味で、米が日本の山をつくってきたことのひとつの側面です。

こうも語る。

水田は、雨を受け止め、水を貯めておくダムだということです。水田が減れば、我々は確実に水資源を減らします。

そして富山氏は、米市場開放問題の緊迫する今、『日本の米』(註6)を著し、日本人が米作りを放棄すれば環境も文化もアイデンティティを失うと警告する。

八雲立つ八重垣

 日本初の宇宙飛行士秋山豊寛氏は、國學院大學主催の文化講演会(平成七年十二月二日、同大學渋谷キャンパス百周年記念講堂)で、

地上四百キロから見た地球は宇宙の漆黒の闇の中で、「綺麗な星だなあと思った。そして自分が属しているところが美しいと思うことがうれしかった」とその瞬間の感動を「掌に置いておきたいという思いがした」(註7)

と語った。
 その秋山氏は、東京放送の報道局次長兼国際ニュースセンター長の職を辞め、農業を始めるそうである。わたしは、彼がこのことをラジオで話すのを聞いた。
 宇宙から見た地球が、「森のあるところには雲がある」「綺麗な星」であり、その感動を大切にし「掌に置いておきたい」と語り、これからの人生を、自然と共に過ごし、自らの手で鍬をとり汗して生きようと、止むに止まれぬ選択であったのであろう。報道に命を賭け、宇宙に赴いたジャーナリストは、青く美しく輝き、白雲にかこまれた「生きもの─地球」の「いのち」を見たのである。
 わたしはこの話を聞き、「われわれ自身の生命維持を保証する」神々の森の上に重なる「八雲立つ八重垣」を見た、一人の日本人を想った。

結言

 この拙い小論は、C.W.ニコル氏の言葉、「神宮は古いものを守っているだけでなく未来を信じている」に啓発され、外国人が信じるものと、われ等が信じるところと同じだと思い、シンポジウム「千年の森に集う」に導かれ、日頃の想いである「献水祭」に纏わる話を紹介した。
 わたしの提案は、「水」への関心を深める新たな出発である。各社に新たな献水行事の斎行を提案したいのではない。各地のお正月行事「若水祭」等の再考も道標の一つとはなろうが。「水」への関心は、日々御祭神に「美味しいお水」を差し上げておりましょうか。そんな自問も生まれ、たとえば日々神棚に、カルキ臭のある水道水を上げてはいないか。われ等に憾みはないか。そこからの出発である。
 神社人にこの思いがあり、日々神饌案上に捧げる「お水」に関心を寄せることが、父祖達の営為に導かれるスタートラインであるように、今思うのである。
 誰もが、水といい放たず「お水」という語感に、日本及び日本人の日常生活が導かれて来たことに異論はないであろう。神域へといざない架かる、橋下を流れる「お祓い川」、鳥居をくぐると 「手水舎」、そして案上に供えられる神饌「お水」に、更めて関心を寄せる提案をしたいのである。
 東雲に起き立ち、日の出を拝み、日々の感謝と祈りの裡に、自然と共に労き励む父祖達への賜物であった「お水」は、われ等への贈物である。われ等の祈りは、「お水」の周辺にあり、そこに、未来を信じることのできる瑞穂の国は、確かにある。

(註1)『神社新報』平6・10・3号 (註2)『月刊若木』平6・12・1号 (註3)『神社新報』平8・3・11号
(註4)『水と緑と土』中公新書、昭49・1刊 (註5)『千年の森シンポジウムパネルディスカッション・「森を生かす経済」の記録』
(註6)『日本の米』中公新書、平5・10刊 (註7)『國學院大學學報』平7・12・10号

お祖父さんお祖母さんの同級生 – 小学六年生向講演原稿(臼井貞光)

こんにちは。
ご紹介をいただきました、愛知縣護國神社の臼井です。
皆さんから、ネギさんと呼ばれています。神主です。
何時も、皆さんのような小学生に、お話をしていませんので、いいお話が出来るかどうか、一寸心配です。
今日は、皆さんの、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんのことを、お話しようと思います。
私が毎日、お勤めをさせていただいいておりますお宮さんは、先程申しましたが、愛知縣護國神社といいます。どういう神様をお祀りしている神社かといいますと、一言で簡単には言えないのですが、あえて申し上げるとすれば、今日の平和な日本の国を、私共に与えて下さった方々を、お祀りしている神社です。
一寸うまく言えませんが、今皆さんが生きていますこの平和な国は、自然にといいますか、初めから平和であったのではありません。今日の平和日本が生まれるには、沢山の戦争がありました。そこでは、大勢の人々が、一つしかない生命を国に捧げて、日本の為にお働きを戴いたのです。そうして、多くの人が生きて故郷に帰ることなく亡くなられたのです。その、亡くなった方のふるさと、郷土愛知県の出身は、約九万三千人を数えます。この九万三千人の方々 を、神様として愛知縣護國神社にお祀りしているのです。全国では、約二百四十六万人。ものすごい数でしょう。この方々を総て神様としてお祀りしているのが、東京にあります有名な靖國神社というお宮さんです。
神社でお祀りをしている神様のことを、御祭神といいますが、二百四十六万の神様、つまり靖國神社の御祭神の大半は、皆さんのお祖父さんやお祖母ちゃんと同じ世代の人々なのです。このことを、これからお話しようと思います。
皆さんのお祖父さんは大抵の人が戦争に行っていると思います。お家で戦争の話を聞いた人があるかもしれません。靖國神社の御祭神は、お祖父さんやお祖母さんの兄弟や友達や同級生の人達ばかりです。お祖父さん達は、そういう時代を生きて来られたのです。皆日本の国の為に、日本を守る為に、兵隊さんになったのです。そうして、大勢の人が亡くなったのです。そのお祖父さん達に、わたしも皆さんも、この平和な日本の国を戴いたのです。今の平和は、お祖父さん達が生命を賭けて守ってくれたから在るのです。戦争のない今日、わたしも皆さんも本当に幸せです。有り難いことだと思いませんか。わたしは、いくら感謝してもしすぎはないくらいだと思います。一つしかない生命を亡くしてしまった人に、有り難うといわないではいられません。
私共は、その人達に戴いたこの平和を大切に守って行かなくてはならないと思います。今度はわたし共の番です。戴いた平和を、皆さんのお父さんやお母さん、わたし共が生命を賭けても、守って行かなけばなりません。その次は、皆さんの番です。その次は、皆さんの子供達の番です。そうして、この平和が何時までも続くよう、みんなでまで守って行かなくてはなりません。
お祖父さん達に、聞いてみて下さい。皆二度と戦争はごめんだ。そうおっしゃいますよ。兄弟や友達同級生が沢山亡くなった戦争なんか、二度といやに違いありません。
わたしが毎日お仕えしている神様方は、いやな戦争をしてでも日本を守らねばと、戦場に出掛けて、生命を亡くさ れた尊いお心を持たれた方々なのです。戦争には負けましたが今の平和は、その沢山の生命と引き換えに在るのです。それを、尊い、有り難いと思わない人がいるとしたら、神様は悲しいでしょう。
わたしは、戦争の一番嫌いな人は、靖國神社や、護國神社の神様だと思います。わたし共は、いやな戦争が起きないように、みんなで考えなくてはなりません。
どうしたらいいのか、どうすれば戦争は無くなるのか、一番大切なことです。
戦争のことは、学校で習っていると思いますが、靖國神社や護國神社の神様が、どういう戦争で亡くなったかといいますと、明治維新といわれている今から百二十年前、日本の国が新しく生まれ代わった時の戦争から、四十三年前、大東亜戦争という戦争に敗れるまでの約八十年間の戦争で亡くなられたのです。先程申しましたが、愛知県でいいますと、九万三千の神様のうち、八万七千の方々は、その最後の十年間の大東亜戦で帰らぬ人となられたのであります。今日の郷土愛知は、その人々の生命の上に成り立っているのです。皆、お祖父ちゃんやお祖母ちゃんの友達同級生ばかりです。
そんなに多くの犠牲を強いた戦争は、誤りであったと、反省することはとても大切なことです。
その反省は、八万七千の生命の尊さを抜きにして考えられるものではありません。そんな無謀なことをするからいけなかったのだと、大東亜戦争を今批判することは簡単です。なるほど、多くの犠牲を考えずにと、言葉の上ではそうではそういえるでしょう。それなら、犠牲が少なかったら、良かったのでしょうか。違います。私共は、一人一人の尊い生命と引き替えに、今生きているのです。
一人一人の生命のお陰で、この平和を戴いたと、感謝をしないで、犠牲者の数の大きさからでは、反省も批判もありはしません。
とにかく、私共は、戦争の無い平和日本に、今暮らしています。
私共が、大東亜戦争を歴史の中で問いなおすことは、重要なことです。皆さんも、これから勉強をして、大いに過去を問い、未来将来の日本を考えていただかなくてはなりません。ただ過去の戦争を非難しているだけで、そのお陰での平和に乗っかって、胡坐をかいているのでは、いけません。そんなことでは、戦争も平和も語れはしません。
戦争は絶対にいけません。悪いことです。と、世界中の人は誰でも思っています。それなのに、テレビのニュースで知っているでしょう。今だって地球上では、いたるところで戦争をしています。好きで戦争をしている人など、何処にもいません。皆平和を希って戦争をしているのです。変なことだと思うかもしれませんが、それが本当のことです。わたしは、まず平和の有り難さを思うことから、皆さんに勉強してもらいたいと思います。
戦争という人間同志の殺し合いが悲惨であるというより、平和であることが尊いのです。尊いからこそ人の生命を賭けてまで平和のために戦うのです。でなければ、尊い生命を賭けての戦いなど出来ようはずがありません。
大切な家族のため、国を守らねばと、戦場に発った人達のこと、そうして銃弾に倒れた人、その家族の悲しみ、その悲しみを癒すことがあると思いますか。それは何処にもないと、わたしは思います。その家族の人達のことを遺族さんといいますが、悲しみを癒す術などありません。そこには、遺族さんの悲しみを無駄にしてはならないということだけしかありません。その悲しみの上に平和がある。だから、平和は尊いのです。二百四十六万の生命と、奥さんや子供、親兄弟の、四倍も五倍もの悲しみと引き替えの平和に、我々は、今生きているのです。
皆さんも、ご両親も、わたしも、戦争を知らない。今爆弾は落ちてきません。鉄砲の弾は飛んできませんが、もし、貴方の家に強盗が入ったとしましょう。小さい貴方を傷つけようとした。子供が殺されるかもしれない。ご両親は、どうされるでしょうか。黙って見ていると思いますか。何とか助けようと、思うに違いありません。そうして、貴方 を助けようとして、お父さんが、代わりに殺されてしまった。貴方の悲しみは、誰にも分からないでしょう。貴方の悲しみを癒すことは出来ないかもしれないけれども、その悲しみを無駄にしないことが、その悲劇に応える道であるとすれば、それは何でしょう。
二度と起きないようにするには、どうしたら良いか。それは、世の中から強盗を無くすにはと、思案に暮れる前に明日また起きる前に、明日また起きるかもしれないと、丈夫な鍵を付けるとか、防犯ブザーを取り付けたりするのではないでしょうか。
そこで、考えて下さい。
日本の国は、今平和です。みんなで遺族さんの気持ちを想い、二度と鉄砲の弾の飛んでこないよう、国を守らねばなりません。
もう一寸、考えてみましょう。
さっきの家の子供とお父さん。日本の国を一つの家と考えてみてください。お祖父さんやお祖母さんの同級生の生命は、日本人みんなの身代わりとなられたのです。
もう、お分かりのことでしょう。
日本国に国民は、一人残らず、靖國神社・護國神社の神様の遺族なのです。
わたしは、そう思って、毎日お礼を言っているのです。
一寸、話が難しくなってしまいました。今日の話はここまでにします。
この次は、神様のことを英霊とお呼びしていることを、中学生になった皆さんにお話したいと思います。
家に帰ったら、ご両親に話してみて下さい。
今の日本の平和は、お祖父ちゃんお祖母ちゃんの同級生の生命と引き替えにあるのだということ。そうして、その四倍も五倍もの遺族さんの悲しみを忘れてはいけないということ。今日神主さんに聞いたと、お話して下さい。
お祖父さんお祖母さんとご一緒の人は、同級生の人達のことを、聞いてみて下さい。
今日は、ありがとうございました。しっかり勉強して下さい。

新米宮司の想い(臼井貞光)

日本吟道奉賛会の皆様には、本年も桜花爛漫の境内にお集いをいただき、詩吟奉納の大会をご開催、ご奉仕を下さいまして、洵に有り難く厚く御礼を申し上げます。
一昨年、先代岩本宮司の後を継がせていただきまして、早くも満二年が過ぎました。愛知縣護國神社にとりましては、戦争を知らない子供、つまり戦後生まれの者が宮司の重責を担うという、始めての時代が参ったのであります。
新宮司として英霊顕彰事業の現場に立ち、更めて深刻に思い起こしますのは、戦後五十年余の年月の過ぎ行く中で、護國神社をご遺族のお宮にしてしまったことであります。この状況を私は、戦後の最大の誤りの一つと考えます。靖國神社・護國神社は遺族さんの神社では、断じてありません。
「後の事は、大丈夫。お国の為に確りと」と「万歳、万歳」と歓呼の声で戦地に送った人は何処へ行ってしまったのだろうと、参拝者の無い社頭に佇み、途方に暮れる神主の姿、実はそれが私の、今日只今の姿であります。しかしながら、如何に英霊の御神徳の宣揚に務め、如何に今後の御社頭興隆に努力をする所存かを、申し上げねばなりません。
ご遺族はもちろんでありますが、多く一般参拝者で賑わう御社頭でなくてはならないのであります。
境内には、「結婚式」勧奨の大きなポスターが掲示をされ、鳥居には「厄祓」の案内看板が立ち、「車のお祓」というのも「安産祈願」・「お宮参り」というのもある。「護國神社で結婚式・お宮参り?」と、中には首をかしげる方もおありでしょう。
お宮参りなどは、一番に御加護が戴ける神社であります。生後間もない子供を抱き、わが子の一生を幸せにと願う親の気持ちは、奥さんのお腹に子供を遺し、わが子の顔を見ることも無く、わが子の成長する姿を見ることも適わなかった、英霊の子を想うお気持ちと瓜二つであります。私は、お宮参りなどは、御社頭にお出掛けいただくだけで、御加護はあるものと存じます。わが子を抱く親の気持ちの通じない英霊など、あるわけはないのであります。
又、二月三日に「太玉柱祭-節分行事」に首をかしげる方に申し上げたい。厄祓は、わが国父祖伝来の行事であります。大厄は男が四十二歳、女が三十三歳であります。何故大厄なのか、厄除を願うのか。自分の身だけを案じて祈願を念じるのではない。四十二歳や三十三歳では、子供がまだ一人前ではない。親もいる。今自分の身に禍が来れば、家族の危機であります。自分の身だけの救いのために、この国の人は厄祓祈願に詣でるのではない。
英霊は、自分の身を厭うことなく、奥さんの為、子供の為、家族の為、郷土の為、国の為に殉じられた方々であります。断じて、自分の為に逝かれたのではありません。家族への思いやりから厄除を願う方の祈願に、英霊の御加護のないはずはない。これが「太玉柱祭-節分行事」を執り行う意味であります。
「車のお祓ー交通安全祈願」だって同じである。可愛い家族の顔が浮かべば、アクセルも控えめになりましょう。
英霊は、この国の隆昌、日本民族を滅ぼさない為に、一つしかない身命を捧げられたのであります。換言すれば、子孫繁栄を願って逝かれた方々なのであります。子孫繁栄を願う心、つまり人生儀礼のご祈願に一番の御加護の戴ける御霊験の神社なのであります。
「神前結婚式」、人生最大の重儀に相応しい神社なのであります。
新米宮司は、参拝者のいない寂しい社頭に佇み、御加護を願うご祈祷の参拝者で賑わう来るべき御社頭を、夢に見ているのであります。
日本吟道奉賛会の皆様には、本日は詩吟奉納にお出掛けをいただきましたが、どうぞこの次は、ご家族でのお参りをご期待申し上げます。本日は、ご奉仕衷心より御礼を申し上げます。

神道造形 – その心とかたち - 神道造形論の展望 1(臼井貞光)

緒言

戸田義雄博士は、日本文化が外国人の眼に「一つの卓越した美的感覚の文化」(註1)として映っていることを、ドミニコ会神父M・H・ルロンの言葉を引いて、紹介した。
「一種の美的感覚ともいうべきものが、これ程個人的、社会的倫理や、形而上学や、更に神学論の役割までも務めることが出来る等とは、我々には想像も及ばなかった」  (註2)
そして、日本文化を「清らかで、きれいであろうとする文化」と指摘をされた。
美的感覚をあらわす日常語「清らか」「きれい」は、宗教的聖性にも、自然美にも、人間美にも、とりわけ、人間関係の態度、思考にも用いられる適切な用語となっている  。(註3)
戸田博士は、日本を「一つの卓越した美」の文化と外国人が認める眼に、「神道」への理解を、示唆されたのである。
わたしが自らに課すテーマ「神道造形とは何か」は、右の示唆により、思索を始めた。
渡来の文化を享受し、やがて国風文化として花開かせる歴史は、わが国お手の物である。今わが国の繁栄、経済大国も、その技の成せるものといえる。その日本を論ずるものは数多あるが、その論究に「神道」という言葉は、神道者が思う程には登場しない。「神道的」といいたくとも、いえないのかいわないのかよくは分からぬ。少なくとも、「神道」という語があまりに大きすぎるからであろう。
「神道」という語は、戦後占領下から独立しておらず、未だ呪縛のなかにいる。文化被害の状況を克服するのに、手間取っているにしても、いずれ「神道」とうい語は、日本を語る言葉としてすら、使い終えてはいない。
たとえば、平安期に「大和絵」が成立する。未だその絵画に「神道」からのアプローチを企ててはいない。してみてもいいと思うのだが。大和絵といい、今日ではジャンルとして日本画の用語もあることからして、試みがあってもいいはずである。
殊更に「神道」という用語に拘っての発言に聞こえるかもしれないが。「神道的」という言葉を、使いたくても使い得ないのは、「もの」に即して「神道」という語を醸熟させる歴史のなかったことによろう。それは、言挙げせぬ道を歩ゆんで来たからに違いない。
戸田博士の指摘から直ちに「神道美学論」を獲得することはできない。それには、まず神道の周辺に在る「もの」に即して「その心とかたち」を問うことから着手せねばならない。博士の示唆は、外国人の眼にある。
今一度、素眼で「もの」を見よという指摘であろう。わたしは、素眼、ここに「神道造形論」が存在すると考えたのである。
その展開があって、逆に「神道」という語が、日本文化論で活躍する用語となるのではないかと思う。そこまで来てようやく「神道美術」という語は、成立が約束されるというのが、この小論の論旨である。

神道美術

日本美術の論究において神道に対する関心は、極めて寒い。それは驚く程のものである。日本美術史第一級の業績とされる矢代幸雄著『日本美術の特質』(註4)等を熟読検討し、つとに発言をされておられる吉井貞俊氏の指摘の通り、現況まことに拙く、遠い想いがする。
吉井氏は、日本美術を論ずるのに「美術プロパーの学者が神道的なものということを念頭に置かずに、日本美の特質」(註5)を説くことを嘆く。しかし同時に、神道者の責務をも指摘される。
神道側の独特のいい表し方をするのでなく、美術の学問的水準の上において、同じマナイタの上に載せて論じたならば、一層万人に共感を得るのではないか、即、美術学者が実際の日本美術にあたって得た日本文化の特質の項目にあたって、その底に流れている神道的な特質を見出し、日本的な性格だとされる由縁の根底を示したい(註6)日本美術を通覽する上で、まずは神道者がいかなる発言をすることができるかを、自戒をこめて語られるのである。神道美学など性急には、成り立たない。神道者が「神道の周辺にある造形物」その一つ一つに「かたちと心」を問いつづけ、そのイコンとイデアの提出が、やがてのこと神道美学樹立を可能にし、神道美術が用語化するといわれるのである。
神道美術という語は、未だ熟してはいない。景山春樹博士の業績(註7)を辿るにしても、日本美術史の上に定着している垂迹美術等の語を覆う程にも、受け入れられてはいないように思う。用語として成熟は、まだ遠い。しかし、近年の日本美術全集などに、「神道の美術」として一巻を成すもの(註8)の出現は、やはり影山博士の孤軍奮闘の結果であり、膨大な資料猟渉と精緻な研究に敬意を表さずにはいられないものである。
用語としての出現は、意味のあることに違いはないが。日本文化に存在するある種の「もの」を、今「神道美術」と称することに、さほどの意味を見い出せないように、わたしは思うのである。たとえば、「仏教美術」という語に並べて「神道美術」といった時のおさまりの悪さとでもいおうか。用語としての不備を思うのである。おそらく美術全集が「神道の美術」という意味もここにあろう。つまり、仏教美術といおうと仏教の美術といおうと、仏像であれば仏教の造形思考を感得する。その像立の所以は、いずれ明らかである。比べて、神道の造形思考の不明を思うばかりである。
「神道美術」という用語が未熟というよりは、「神道の美術」といういい方が、用語として「神道美術」を予測してはいない。今「神道美術」というのは、垂迹美術等を覆う程度の用語として、約束されているにすぎず、「神道の美術」というのは、むしろ神道の造形論を希求してのいい方のように聞こえる。美術という前に、造形論が課せられているのである。
管見の日本文化論の裡に、神道の造形論希求の声を聞くこととしたい。まずは、日本美を語るものから、発言の糸口を得たいと思う。

素木と白紙

わが伊勢の神宮の建築が、ギリシャの神殿パルテノンと双璧をなし、世界の建築美の極致と讃える建築家ブルーノ・タウトは、その著『日本美の再発見』(註9)で次のように述べる。
伊勢神宮に於ては、一切のものがそのまま藝術的であり、殊更に技巧を凝らした箇所は一つもない。素木は清楚であり飽くまで淨滑である。見事な曲線をもつ萱葺屋根も、ー然し軒にも棟にも反りが附してない、ー基底部に於ける木材と石との接合も、共に清々しい。實際、構造學的性格を表現するに役立たないやうな装飾は何一つ施してないのである。棟木の上に列ねた勝男木の兩端にはめてある金具は、萱葺と檜造りとによく調和してゐる。神前に供へた榊の緑枝と御幣の白紙さえ、全軆の調子とぴつたり一致してゐるのである。(註10)
神宮の建築その総てが芸術的であるとする外国人建築家タウトの眼に「御幣の白紙」、その美しさが映っている。おそらく、「御幣の白紙」の意味を知っての発言ではないように思われる。神宮の建造物即ち巨大な「神道造形」を前にして、神道者が外国人に遷宮の意義を語らねばならぬとすれば、同時に「榊の緑枝と御幣の白紙」即ち小さな「神道造形」の意味をも語るべきでものであろう。
神宮を「一切のものがそのまま藝術的」であるという『日本美の再発見』の著者は、日本美に一つの視座を教え、われらは、清楚で浄滑な素木と無垢なる白紙の造形論を展開した。
日本美の要素として素木と白紙の話は、よく語られて来た。タウトも神宮と共に桂離宮を讃える。確かに、それらは日本美を構成する一つの要素に違いない。しかし、素木と白紙の美の発見により日本美の全貌が語られはしない。それにより日本美の多様性は語られたが。これまで論じられて来た意味で、素木と白紙を日本美の要素とする考え方は、不備である。それは、素木と白紙の美学で日本美を覆うことは出来ず、わたしは、むしろ素木と白紙に日本人の持つ造形思考を覆う論理が、隠されているように思う。
戦後、縄文土器の美を発見した岡本太郎氏の論考(註11)に続き、多くの美術史家等が縄文の系譜・弥生の系譜の話をされ、神宮・桂離宮と東照宮の美術論を述べた。当たり前のことだが、日本美が決して一枚岩でないことを語るのに、都合のよい論理であった。日本美の多様性を語るのは、楽しい。だが、そこでは一方の美を語るものとしてしか、素木と白紙は登場しない。
岡本氏は、民族の生命力として縄文土器を語る、そのはじめに、
じっさい、不可思議な美観です。荒々しい不協和音がうなりをたてるような形態、紋様。そのすさまじさに圧倒される。
はげしく追いかぶさり、重なりあって、突きあげ、下降し、旋回する隆線紋(粘土を紐のようにして土器の外がわにはりつけ、紋様をえがいたもの)。これでもかこれでもかと、執拗にせまる緊張感。しかも純粋に透った神経のするどさ。(註12)
と、縄文造形の強烈なるエネルギーを語る。
わたしは、神宮の美が縄文の系譜に入れられるものと、密かに考えている。なるほど、素木も直線もシンメトリカルな構成も、弥生のものかもしれない。しかしどう考えても、金箔を施された錺金物の絢爛たる装飾性と軒深く重量感のある萱屋根をどっかりと支える棟持柱の構成、その柱が構造的には無為で、単にではないにしても装飾性にその意を考え得るのであれば、お白石の河原に根付く大樹のごとく見え、いわれるような弥生のものではなく、むしろ縄文の系譜に入れたくなるのである。
素木と白紙は、これまで日本美の多様性を語る一つの要素とされて、確かにその論究を支えてきた。もしタウトがその論に拍手をしたとしても、わたしは、その論理を受け入れない。素木と白紙は、未だ語られぬ日本美の論理を、担っているように思うのである。
「素木と白紙」に日本美を語るこれまでの論理の、どこが不備なのであろうか。
わたしは、タウトが実際どういったかは知らぬが、日光東照宮の拝殿で見る玉串の紙垂の白さ、その美しさが目にしみる。白紙の造形は、極彩色の東照宮を語り得る要素と考えねばならない。つまり、東照宮の美をも語り得る要素として「素木と白紙」に、その造形思考を見いださねばならないのである。

今度は、わが国の建築史家の言葉を聞くことにしよう。
井上充夫氏は、『日本建築の空間』(註13)で「原始日本人の建築空間に対する態度」について、二つの指摘をされる。
ひとつは古代人の「柱」に対する異常な関心である。これは、とりもなおさず実体的なものへの関心を示す。他のひとつは、原始以来の古い神道儀礼である。そこでは人神が同居しており、空間の分節が行われていない。(註14)
井上氏は、神話の「天之御柱」が一本の独立柱であったことを説かれる。諏訪大社の「御柱」によくいわれるような依代説を、後世の合理的解釈として退ける。木遣に「御小屋の山の樅の木は、里に下りて神となる」と唄われるその字句どおりに、柱そのものの神性、素朴な信仰を御柱の性格とされるのである。
また、周知のごとく神宮の「心之御柱」が、床下に打ち込まれた杭のようであり、出雲大社のそれは天井裏で、梁に達っすることなく止められ、いずれも構造上は無為の柱である。「心之御柱」は、神が宿られるものとして神聖視されるのではなく、木遣唄のごとく「神」そのものの姿、「神のかたち」として存在していると述べられる。建築史家の眼は、心之御柱に神の実態を見るのである。(註15)
「柱」は、ものをかたち造る素材であり、それ自体はかたどられたものではない。即ちかたどられたものからすれば、未だ実体のないものであり、いわば無であり空としか言葉としていいようのないものである。建築史家は、それを神といわれた。
「柱」も樹木という素材による造形物ではないかと、樹木を依代とする神、あるいはそれに宿る神の話をし始め、更には、ハシラとハシ(橋・端)という言釈をしたくなるが、敢えてわたしは、建築史家の眼が造形物を神の姿だということに注目をしたい。そこに神を観るという構造ではなく、それが神の姿かたち、それが神の実態だという指摘に、耳をかしたい。
よくいわれる万物に神宿るという意味ではなく、造形物「柱」が神ということは、素材もさることながら、造り方もしくは造られ方に、その成立の意味が隠されていることを、暗示している。
タウトは、素木の美を清楚であり浄滑であると表現した。清楚で浄滑なる柱は、造られるたる美である。造形美は、当然造形思考により存在するが、その話をする前に、柱が神となる造形思考を見いださねばならない。それには、ひとまず神を宿すもの即ち神が宿られるにふさわしい造形物という美の論理を捨てて、神を造り出す造形思考に眼を向けねばならないということである。
くしき柱の要素を探す作業の前に、神となる柱の要素に気付かねばならない。柱が素木かどうかではなく、木が里に下って「建てられる」ことで、柱即ち神という造形思考を、知らねばならない。
日本美をわれらに教え、あるいは覚醒させるに都合のよい要素「素木」を、美の論理の呪縛から解放して、柱が神となる造形思考に、まずは眼を向けよう。美の所在を探す美学論に性急にならず、ここに神道造形論を展開せねばならないのである。
一本の柱に、神籬の役目をさせるのに性急にならず、無といい空という虚ろなるもの「柱」を「建てる」ことで、「神」の実態を語る建築史家の眼を、今しばらく追うことにしよう。

神社建築

近年、卓抜なる日本美学論を展開する大橋良介氏は、『「切れ」の構造』(註16)を著し、「一切」は「いっさい」と読み、「すべて」という意味をもち、一切(ひときれ)の裡に全体性(いっさい)をあらわす言葉の構造から、日本文化の裡にある時間論を提唱した。
「建てる」ということは、時の移ろいゆきに抵抗することでもある。時の内にあるものはすべて移ろいゆき、滅びゆく。その無常性に抵抗して、恒久的なものを構築するということが「建てる」ということである(註17)
しかし、建築物のなにもない、自然物のみを置く「祭場」が神社の原初の姿だったという由来  は、神社建築の造形的意識の内に残りつづける(註18)
大橋氏は、建築以前の自然物だけで成立する祭場を、神社建築の裡にある非建築的要素として捉え、それを「心之御柱」にも観る。(註19)
神宮建築は、心之御柱を内包するという構成概念で存在しない。社殿と柱は、その非建築性により捉えられ、自然(たとえば禁足地)の祭場と柱・社殿は、自然性と造形性を行きかう「位相」として、その非建築的要素を認めるのである。(註20)非建築的要素とは、「原初の記憶」に他ならない。それは、祭るという状況即ち原初の再現儀礼を予測させるのである。
「建てる」ということを非建築的要素で捉らえる逆説は、行為と状況の周辺でしか、その造形を語ることは出来ないであろう。そこに在る造形思考は、無といい空という虚ろな造形物「柱」を建てる行為と儀礼により成就される。それは、造形物「社殿」が「無常性に抵抗して、恒久的なものを構築する」という行為により存在するものではなく、その状況により成り立つ。
社殿は、非建築的造形思考により存在するのである。
更に、大橋氏の言葉を引いておこう。
神社建築の感性のうちでは、自然性と造形性とがある独特の相関構造をなすように思われる。すなわちそこでは、建築以前の自然性が基底となるがゆえにどのような造形でも受け入れられるとともに、しかも元の自然性は失われないという構造である。この神道文化の構造と生命力とが、異文化を受け入れつづけた日本文化の基調をなすとおもわれる(註21)
井上充夫氏は、もう一つの指摘をされていた。上古神人同居説である。
大嘗宮等の建築様式の考察により、神の専有空間と拝殿の空間分節はなく、社殿成立から時を隔てるにつれ、社殿閉鎖が始まるといわれる。神々の住まいである社殿に人が入れなくなる歴史を、建築構造上から考証され、神宮濫觴の物語や神人共食儀礼を想えば頷きを得よう。そうして、古代寺院の伽藍が仏(仏像)の専有空間として造られているといい、当初の伽藍が人の侵入を拒む様式にあり、時代が下がるにつれて開放されることを検証され、社殿はというと、逆に時代とともに閉鎖されるというのである。(註22)
この話は、仏教受容の歴史が、当初見ることのできなかった仏像を可視状態にし、逆に神々は、社殿の奥深くに籠られる歴史を語るが。仏を蕃神として受容し、伽藍が非建築的な建造物として受容されることを考えれば、当初仏像が「秘仏」という受容の状況が暗示され、今神々の住居とされる社殿の濫觴が、拝殿に予測される歴史を傍証するように考えられる。
むしろ、伽藍の非建築的受容が社殿の空間分節を認識させたのである。
たとえば、「立木仏」は、固有の霊木信仰と仏像伝来の出合いにより存在する。それは、造仏思想により鑿が入れられ、霊木信仰により顕現されたと、単的にいわれるが。それには、霊木に鑿を受け入れるという造形思考を確認せねばなず、「立木仏」は、その造仏の由来に非造仏的要素を見いだすこと以外に、顕現されない。
霊木が仏像となるには、その存在が非造仏的である状況により成り立つ。
「秘仏」いうもまた、仏像造立が元来視覚的意味に支えられて、造くられるにもかかわらず、秘されしものという状況により存在する。それは、見えないものを視覚化するという造仏行為では成立せず、それが秘される状況により、はじめて成就する。
固有の霊木信仰は、非造仏的造形思考という、造仏思想の裡に生き続けるのである。
もう一つ、示唆にとんだ日本論を紹介しておこう。
西欧思想の中心統合構造と、日本人のもつ中空・均衡構造を対比させて、科学的知に対し神話的知の復権を述べた名著『中空構造日本の深層』(註23)で、河合隼雄氏は、わが国が常に外来文化を取り入れ、時にはそれを中心においたかのごとくおもわせながら、時がうつるにつれそれは日本化され、中央から離れてゆく。しかもそれは消え去るのではなく、他の多くのものと適切にバランスを取りながら、中心の空性を浮かびあがらせるために存在している。(註24)
更に、新しいものをすぐに取り入れる点では中空性を反映しているが、その補償作用として  、自分の投影した中心に対する強い執着心をもつ。(註25)
と、述べる。
庭上儀礼から堂内儀礼への移行に伽藍開放の歴史を述べるのであれば、同時に「秘仏」とされて堂深く安置される造仏の由来を語らねばならない。「秘仏」は、わが国の仏教受容の補償作用を担わされている。河合氏は、この作用をいわれるのであろう。
換言しておこう。「柱」は、建てるという行為と状況により「神」となる。その非建築的な造形思考は、原初の記憶による祭という状況を生み、「柱」を依代とする儀礼を、当然可能にする。
「本殿」は、伽藍を非建築的な思考で受容することで、神々の住居としての建造に着手されるが、原初の記憶として今も仮設である。「拝殿」は、「本殿」の空間分節により建造がはじめられたのではなく、「拝殿」の空間分節が、伽藍受容により「本殿」が成立するのである。なによりも、同殿同床の歴史がそれを傍証するであろう。
どうやら、「柱」と「本殿」は非造形的(註26)な造形思考により存在しているようである。それにより原初の記憶の回帰が語られるとすれば、明らかに「神道」という語の活躍が予想され、それは、大橋氏が述べられる「自然性と造形性とがある独特の相関構造」が織りなす造形に、神道造形論を展開せねばならない。

(註1)『現代宗教思想のエッセンス』監修仁戸田六三郎(昭和44年、ぺりかん社)一五頁 (註2)註1一六頁 (註3)同 一六頁
(註4)(第一版昭和十八年、第二版昭和四十年、岩波書店)
(註5)『研修』二五号(昭和四十九年) 七〇頁 (註6)同 七〇頁
(註7)『神道美術』(昭和四十八年、雄山閣出版)
(註8)『日本美術全集』一一巻(昭和五十四年、学習研究社)
(註9)訳者篠田英雄(昭和十四年、岩波書店) (註10)同 一九頁
(註11)『日本の伝統』(昭和三十一年、光文社) (註12)同 七八頁
(註13)『日本建築の空間』(昭和四十四年、鹿島出版会) (註14)同 一六頁 (註15)同 一七~二六頁
(註16)(昭和六十一年、中央公論社) (註17)同 二五頁 (註18)同 二五頁 (註19)同 三〇頁
(註20)同 二三頁 (註21)同 二六頁 (註22)註13二六~三六頁
(註23)(昭和五十七年、中央公論社) (註24)同 四二頁 (註25)同 四二頁
(註26)既に、宮地治邦先生の論考「神像考序説」(『神道史学』二号)で、用語として使われている。

英霊奉斎社の戦後生まれの神主は今(臼井貞光)

愛知縣護國神社で祢宜を務めております、臼井でございます。
私は、遺族会の参拝奉告祭や、戦友会の慰霊祭奉仕後の社頭で、必ず申上げていることがございます。
それは、今祭典奉仕を致しました私自身が、御英霊のこと、戦争のことを直接知らない世代でありますこと。そういう者が、護國神社の祢宜を務める時代が来たこと。護國神社も宮司の外、私祢宜以下神主全てが戦後生まれであることを、まずお話します。
戦後四十五年、私共の顔を見れば自明のことでありますが、敢えて申上げますのは、護國神社の神主は、若くても戦争を知っているかのごとき、問いかけがあったりするからであります。
私共は、直接何も知らないことを、まずお話して、今後ご奉仕を続けて参いるのに、私共の頼りとなりますものが、何かを申上げるのであります。
それが、ご遺族や戦友皆様の言葉の外に無いことを申上げるのであります。御英霊のこと、戦争のこと、皆さんの言葉としてお遺していただきたいと、訴えるのであります。
これまで、皆様方と私共の先輩は、靖國神社の問題、ご遺族のご接遇の問題等を、声を大にして発言をし、運動をしてこられました。残念ながら、どれも私共の意に適ってはおりません。勿論、この運動は、続けて参らねばなりません。私共が、今皆様方に言葉を遺して下さいと申上げますのは、これまでのように、いわば我々側から外に向っての言葉ではなく、我々の側つまり皆様方お一人お一人のお家で、御英霊のこと、戦争のことを皆様自身のご体験の言葉で、お遺しいただきたいと、申上げるのであります。
亡くなられた方々のことを、お話していただけるのは、皆様方しか無いのです。
戦争を知らない子供であります我々は、唯一皆様方の言葉を、頼りとして御英霊のこと、戦争のことを考え、伝えてまいらねばなりません。これが、私共若い神主の、切実なる心情であります。と、お話しをするのです。
どうか、お家で御英霊のこと、戦争のこと、本音の言葉をお伝えたえ下さい。
我々は、お約束を致します。このお社、先輩から頂戴したこの施設、ここで行われますお祭、このままの姿を必ず伝えます。少なくとも、私共の子供、孫の世代までは、必ずやお伝え致します。その時、私共の孫と皆様のお孫さんが、ここで会えないことがありますれば、英霊奉斎などありません。そんなことなれば、日本の国は、どこへ行ってしまったのかということになるに違いないのです。
そんなことをお話して、どうかお参りの時は、お孫さんに車で護國神社乗せていってくれと、お願いしてみて下さい。そういってお孫さんを、連れて来て下さい。そうすれば、いつかお祖母ちゃんを、護國神社に乗せていったなアと、記憶に遺していただけるのではないでしょうか。と、いつも御社頭で話をしているのです。
何故、このようなことを申し上げるのかといいますと、世の中で戦争体験の風化といわれておりますことにつき、大変僭越なことで恐縮ですが、ご遺族さんのお家で、御英霊のことが伝わらないのではないかと、現実の問題として日々感じているからであります。
これも、未亡人さんのお集まりなどで、申上げるのですが、皆さんは靖國神社、護國神社の神様の奥様でらっしゃる。子供さんは神様のお子でらっしゃる。お孫さんには、あなたは靖國神社、護國神社の神さまの孫ですよ。そうして、我が家は、日本の国が大変な時に、一つしかないお命を国に捧げられた御英霊をお出だしいただいた家柄であることを、お話して下さっていましょうかと、本当に僭越なことを敢えて申上げるのです。
何と当たり前のことを、何も知らぬ者がいうと、お叱りを覚悟で申上げますのは、遺族さん自身のお口から、我々遺族がいなくなったら、お参りも無くなってしまい、大変ですねと、いわれると、ご遺族さんのお家は、増えることはあっても、無くなることはないじゃありませんかと、問うてみたくなるのです。
私共、日々御神前にお仕えする者は、万歳をして、後のことは心配するな、お国の為にと、歓呼の声で送った、あの人達はどこへいったのかと、遺族さんと腹を立て、嘆いているだけでは、奉仕は適いません。
ご遺族さんに、お心がわかるとは申しません。お察し致します。戦後の日本は間違っています。申訳ない。申訳ないが、少なくともご遺族さんのお家で、御英霊のことがお伝えできないことにならないようにして下さい。ご遺族であられることを誇りに、胸をはって、お過ごし下さい。と、ご無礼にも、鞭打つように、戦後生まれの神主は今、社頭でこんな話をしているのです。

明治の見識 – この國の姿(臼井貞光)

愛知縣護國神社の創祀は、明治二年五月二日、尾張藩主徳川慶勝侯が、戊辰の役戰没の藩士等二十五柱を、名古屋東郊の川名山(香積院山内)に鎭祭して、「旌忠社」と號けたことに始まる。
数えて平成十一年は、御鎭座百三十年を迎えたのである。 靖國神社の御創建も、明治二年六月二十九日であり、やはり百三十年を迎えられたのである。
我が國の悠久の歴史にあって、鎭祭百三十年の神社は、歴史の極めて短い神社である。しかしながら、短い歴史の神社が、その悠久なる歴史を物語るのである。

平成七年、未曾有の終戰から五十年、真夏の日。わたしは、「我らは五十年や百年の話をしているのではない」、そんな想いに気付かされたのである。
五百年、千年、千五百年後、大東亞戰で亡くなった、あの方、この方。何処にお祀りされているのだろう。
千年後も、氏神さま、鎭守の杜があるように、熱田さまが、お伊勢さまがあるように、靖國神社・護國神社もあるのである。もし千年後、靖國護國がなかったとしたら、その時は、この國のない時であろう。この國があるかぎり、鎭守の杜があり、熱田神宮が、伊勢の神宮があり、必ず靖國護國もある。
我らが先人は、明治の始め、戰沒犠牲者を、神社にお祀りした。これが、この國の姿である。
戰沒犠牲者を、「神」として「社」にお祀りした「明治の見識」は、この國の悠久なる歴史と伝統を、この國の姿を、教えてくれているのである。

毎年、八月十五日近くになると、メモリアルセンター、國立慰靈堂等禮拝施設の建設を聲高に語る輩があるが、彼らに「明治の見識」は問うであろう。慰靈堂でも何でも、造ればいいのに。今日まで、どうして出来ない。慰靈をするところが増えるのはいいではないか。反対などしたことはない。何故出来ない。それは、靖國護國があるからではないか、と。
そうして、「明治の見識」は語るであろう。この國の為、一つしかない「いのち」を捧げた、英靈の「まこと」を、この國のあるかぎり、お祀り出来得るところが、靖國護國の外に、神社以外に、何処にあるというのか。

先師朝賀百合子宮司と私(臼井貞光)

神主にならうとして、國學院の神道学科に行ったのではない。當時わたしは彫刻家になる夢を見ており、本當いふと今でも夢の中にゐるのだが、「美術」といふものを知るには、「宗教」を知らねば分かる譯はないといふ、自分の合点に酔っており、さう思って選んだ宗教が「神道」だった。
しかし、なぜ「神道」なのかは、単純な話で、國學院に二部神道学科があり、昼間働けば東京で暮らすことも何とかなると、さう思ったまでのことで。專ら経濟的理由が先行の選擇だったのである。
最初の二年間は、神楽坂の旺文社でアルバイトをして、夜大學に通った。三年になるとき、同級生から神社の實習生になることを勧められた。余程悲惨な成りをしてゐたやうで、授業料も出して貰へるし、三食付、下宿代は要らない。友達の言葉に從って、お世話になることにした。練馬区石神井公園の一畫に御鎭座の氷川神社である。
宮司朝賀百合子女史との出會ひである。學費と三食に目が眩み、社務所生活が始まったと、周りは思ったに違ひない。動機不純な輩に、朝賀宮司はなんとも辛抱強く、恐ろしく丁寧に、真摯にご教導を戴いた。何でこんなに、親切親身にして戴けるのだらう。ご家族の優しさも、有り難かった。神職に成る氣のない不逞の輩としては、いひやうの無い自責が募る毎日であった。

或る日のこと、朝賀宮司とご家族の會話に「ミツタロウさんが」「チエコさんは」等と言葉が行き交ふ。「ひょっとして、高村光太郎・知惠子のことですか」と問ふわたしに、「さうよ、コウタロウではなく、本當はミツタロウさんなの」とおっしゃる。何と宮司は、光太郎の父高村光雲の高弟山本瑞雲の息女であったのである。
臼井吉見の小説『安曇野』に、高村光太郎がフランスからの歸朝を、神戸に迎えるのが山本瑞雲であり、光雲一の弟子、高村家の番頭格として畫かれてゐる。瑞雲、その人の娘なのか、このおばあちゃんは。

恩師朝賀百合子女史との出會ひなくして、神職になることなどなかった。
石神井氷川神社、朝賀家での二年間を、誰が吾が人生に予定をしてくれたのであらうか。

彌彦神社の參道に山本瑞雲作の神馬像がある。新潟から歸って、直ぐに電話で神馬の話をした。米壽を過ぎた朝賀宮司さんとの長電話は、盡きることのない話が續く、何時もわたしの想念は、美術と神道、この国の造形、そしてその総てのキーワードが、神職朝賀百合子女史の周邊にある。
紙縒りを縒る。紙垂を裁つ。朝賀宮司の造る紙の造形の見事な美しさに、驚いた。宮司の手に成る御幣の造形、木と紙のシンプルなる造形の美しさ、その感動が、吾が神主人生の出発點となったのである。
恩師朝賀百合子先生、平成十二年九月十七日歸幽、享年九十三歳。感謝。

護國神社は今(臼井貞光)

戰爭を知らない子供が、護國神社の宮司を拜命して、早くも六年半が過ぎた。昭和四十八年春、護國神社奉職からは、數へて三十二年半の歳月が流れたことになる。今年は、日露戰爭戰勝百年、大東亞戰爭終結六十年、世情は勝手に靖國神社を話題にしてゐる。そんな中で、『宮柱』に寄稿を許された。
護國神社の宮司としては、この機を逃さず、憂國の心情を述べねばならないところだが、參拜者の減少は、話さうにも、訴へやうにも、誰もいなくなつてしまひさうで、余裕なく焦るばかりである。
明治の初め、われ等が先人は戰沒犧牲者を神社に、英靈として祀つた。神社とは、門前市を成すほどの賑はいがあつてこそ神社であらう。ならば、わが護國神社は神社であらうか。
われ等は、神社に英靈を祀つた先人の深甚なる思ひを未だ叶へてはゐない。未だ愛知縣護國神社は、先人の希つた神社とはなつてゐない。御祭神のご加護を求める人々が門前市を成すところに、何としてもしなくてはならない。

戰後生まれの宮司として、護國神社の今を、報告することとしたい。
十年前、ご祈祷奉仕の神社にしていかうと、施策の一環として結婚式の勸奬を開始した。本音は初宮詣や七五三詣にあつたのである。お宮詣や七五三詣を護國神社へどうぞといつても、なかなかご祈願に來ては下さらない。ならば、結婚式から始めやうといふ譯であつた。
御祭神の半分位は結婚をされてゐた。その半分は、子供さんがあつた。その悲慘は、わが子を奥さんのお腹に殘し、わが子の顏を見ることなど叶はぬ哀しみの極みにあつた。成長したわが子の姿を見ることも叶はぬ覺悟の出征が、英靈のお姿である。
今、護國神社の社頭に、わが子を腕に抱き、わが子の一生の幸せを祈る親の「こころ」は、英靈に何の説明も要りはしない。それは、英靈の「こころ」でもある。初宮詣や七五三詣に子供の手を引く親の「こころ」は、誰よりも英靈がよくお分かりである。「こころ」は同じ、これ程に、初宮詣や七五三詣に一番のところがありませうか。といふのが、子供のご祈願を勸奬しようとするわが思ひである。これらご祈願の遠因は、結婚にある。といふ譯で、結婚式勸奬の開始となつたのである。

今一つは、自動車のお祓いである。
あの戰爭が終はつた日、一家に一臺の自動車を持つ、こんな豊かな時代が來ることを、予想した人がいやうか。誰も、夢にも見なかつたのではないか。
今日、豊かさの象徴の一つは、自動車であらう。とすれば、この豊かさは、英靈の「いのち」と引き替への豊かさではないか。今、この繁榮の中で、ハンドルを握る者は、英靈の「いのち」と引き替へに、こんなにも便利な自動車を驅らせてゐるのではないか。英靈の「いのち」の上に、われ等は自動車を走らせてゐる。
英靈に「御陰で、こんなにいい自動車に乘れるやうになりました」と、先は感謝をして、その上でご加護を願ひ出るのが人としての筋ではないか。この豊かさを享受するものは、英靈に感謝の誠を捧げ、しかる後にご祈願を致しませう。といふのが、自動車のお祓いを勸奬するわが思ひである。

英靈にふるさとの「お水」を差し上げやうと、二十年前終戰四十年を記念して獻水像の境内に建立獻納を受け、「獻水祭」が始まつた。神社では全國の名水、北は利尻島、南は沖繩から毎年七十余箇所の「お水」をお供えして、今日まで變はりなく獻水行事が執り行はれてゐる。
十年前終戰五十年を記念して、若い神職さんの發議で神社廳を擧げ、わが境内でお始めをいただゐた「獻燈祭」も、より盛大裡に受け繼がせていただいてゐる。
今年は終戰六十年を記念して、お正月を飾る七メートルの大門松を、大鳥居前に設え、新年を迎へた。そして夏越の祓は、いつもの「大祓」に大の字を冠ぶせ「大大祓」と稱して齋行した。これも七メートルの「大茅の輪」を大鳥居前に設け、大なる大祓は、終戰より干支一巡、ここが節目と心得、これからの護國神社、新たな出發を象徴して執り行つた。

門前市を成すところに、早くしなくては、英霊に申し訳ない。
一途に、これだけを思ひ、職員一丸となつての奉仕が、わが希ひである。が、われ等の奉仕は、當然のこと神社界を始め多くの方々に支へられてゐる。更めて深甚なる御礼を申し上げ、もう一つ感謝の出来事を紹介して、護國神社社頭報告の筆を擱く。
先代岩本宮司積年の思ひでありました、愛知県下英霊社忠魂碑等の調査も、本年三月終戰六十年を記念して、報告書第四輯の上梓が成り、この事業の當初の目的を一應逹成することができました。勿論、調査活動は續け、報告書も續刊していくつもりであります。

今後も萬々のご支援ご協力を懇願申し上げます。(平一七、八、八)

「命日祭」社頭挨拶(臼井貞光)

ご参拝、まことに、ありがとうございます。
ご命日のお祭り、滞りなく、ご奉仕申上げました。
御英霊には、どんなにかお喜びのことと、拝察申上げます。
きょうは、お時間をいただきまして、二、三お話を申上げたいと存じます。
始めに、このご命日祭のことでございます。
実は、現在、命日祭に、ご案内をしまして、お出掛けいただいております方は、二割で、八割の方は、ご欠席であります。
まことに残念なことでございまして、なんとかお参りを頂戴致し度、お願いを申上げておる次第でございます。
そこで、神社といたしまして、今後は、皆様のご都合に合わせて、命日祭のお祭り日の変更を、受付したいと存じます。
きょうおいでの方の中にも、昨日の方が良かった。この間の日曜日の方が良かった。土曜日の方が良かった。という方が、必ずおありかと存じます。
神社としては、十日程前に、ご案内状を差上げておりますので、お葉書をお受け取りいただいきました時、その日より、この日の方が良いという日がありましたら、お電話で結構です「この日に変えて下さい」とご連絡を頂戴致したいと、存じます。
お一人でお住まいの方は、まことに申訳けありませんが、若い方とご一緒にお住まいの方、お孫さんが、ご近所においでの方は、是非、ご一緒にお出掛け下さい。
今、若い方、サラリーマンでありますと、土曜日・日曜日がお休みの方が多い。若い方は、車に乗られない方は殆どなく、皆車の運転をされます。一年に一度のことであります。どうぞ、「車に乗せていってくれ」といって、引張って来て下さい。
何故、こんなことを申上げるかと、言いますと。この命日祭のお申込みの時のことを、思返して下さい。
この命日祭は、お申込みになった方と、神社がお約束したというだけではございません。神社とお家が、きょう、ご命日のお祭を致します、と、お約束したということを、思出して下さい。それから、このところ、随分と多くお電話がかかってまいります。
来年は、戦争に負けてから五十年の年を迎えます。終戦の頃、やはり、御英霊が一番多うございますので、昨年から今年、仏教さんでいうところの、五十回忌の方が多く、「五十回忌の法事をいたしましたが、神道では、神社では、どのようでしょうか」と、お電話があります。
仏教と変わりません。神社では、五十年祭というお祭を、ここで、ご奉仕致します。  皆様方のご都合により、ご連絡をいただきますれば、何時でも、ご奉仕を承ります。蛇足ながら、申上げますが、仏教さんと一寸違いますのは、数え方が違います。神道では、亡くなられて一年目に一年祭、三年目に三年祭、五年目に五年祭、満十年目に十年祭、満五十年目に五十年祭というお祭を致します。
しかしながら、五十年目の年にどうしてもしなくてはならないと、堅苦しくお考えいただかなくても、良いと思っています。仏教さんでも、来年五十回忌になるんだけれど、今年の方が親戚さんが多く集まっていただけそうなので、今年します、ということがありますでしょう。神道も同じです。
一寸方便を申上げましょう。
お祭の一番良い日というのは、お祭を受けられる方の、一番喜ばれる日、とお考え下さい。ご命日のお祭であれば、ご命日の日が一番良いことはあたりまえのことですが、でも、その日は、家族が半分しかいない。つぎの日だと、全員がそろう。その次ぎの日であれば、ご親戚皆さんが、集まっていただける、としましょう。であれば、三日後が御英霊、一番のお喜びに日ではないでしょうか。懐かしい方が、お集まりの日にしていただければと存じます。
「いえいえ、神主さんそれはダメです」とおっしゃる方がおありでしょう。「前にするのはいいが。延ばすのはダメ」とおっしゃるでしょう。待っておられるからダメということでしょう。であれば、きょう、おでかけ前にお仏壇に、手を合わせて来られなかった方はないでしょう。そんな時に、お話し下さればいいのではないでしょうか。決して御英霊は、お怒りになることはないと、存じますが、どうでしょう。
五十年祭も、四十八年、四十九年、あるいは、五十二年、五十三年目にやっていただいても良いと、思ってりおます。
そして、お電話で一番困っておりますのが、「おといあげ」ということであります。「今年五十年の法事をしました。ところで、命日祭も今年でおしまいでしょうか」とかかって来ますことです。今、お話ししましたように、「おといあげ」ということはありません。ずーと、永久に、神社があるかぎり、お約束の通り命日祭はご奉仕してまいります。
私は、これまで、神社では「おといあげ」というのはありません。といってまいりましたが、いささか反省をいたしております。よく考えてみますと、皆さん方の多くのお家が、これまで、営々として、仏教でご先祖さまの、お祭をして来られて、これからも、お家のお祭は仏教でやって行かれるお家ばかりでして、そういう方々に、神主が、仏教はダメですと聞こえそうなことを申上げて、本当にご無礼なことでして、お許し願い度、お詫びを申上げます。
で、今後は、この命日祭を、御英霊のお祭の中心に据えて下さい。
これからは、一年に一度ご家族で、ここにお出掛けいただくことで、皆さんのお家が、御英霊をお出しをいただいた家柄であることを、お伝え下さい。
言葉が悪くて、お叱りを受けるかもしれませんが。命日祭を使って、御英霊のことをお伝え下さい。
それから、お電話でよくありますのは、「一度命日祭に、ご親戚と行きたいのですが」と。どうぞいらして下さい。何人でいらしても結構です。ただし、その時はご連絡を下さい。二十人で行きます。三十人で行きます。そう言って下さい。
何故か。 玉串です。当社では、一年三百六十五日いろいろのお祭をご奉仕しておりますが、この命日祭だけが、例外です。普通玉串というのは、お代表に捧げていただいて、後の方はお代表に合わせて、拝礼していただくのですが。このお祭は、ご参列皆さん全員、お一人お一人に上げていただいております。折角お連れいただいて、玉串がありませんでしたでは、皆さんのお顔が立ちません。ご連絡をいただければ、準備をして、お迎えを致します。どうぞ沢山にお連れをいただきたいと、存じております。
これも、度々お話し致しておりますが、大鳥居を入りまして、手水舎がありますが、その奥に、献水像があります。
お水を、おそそぎいただくところ、まさに献水をしていただくところであります。
「南の島、大陸、病院でお水が欲しいとおっしゃった御英霊にお水を」と、よく皆さんおっしゃいますが。あの献水像は、全御英霊にお水を捧げるところとして、お造りをいただいたのでございます。
何故こんなことを申し上げるかといいますと、日本の国は大変に有難い国でして、何処へ行っても、お水が飲めるのです。しかしながら、国を離れると、お水は飲めません。内地で亡くなった方も、ふる里のお水はご所望なのではないでしょうか。そんなことを考えます時、私共は、皆様方に、護國神社にお出掛けいただきます度毎に、必ずお家のお水をお持ちをいただきたいと、お願い致したいのでございます。
毎日、お一人だけですが。ご近所のご遺族さんですが、毎日お水を持って、お参りの方があります。その方は、一合くらいの密閉容器、今なんでありますよネ、それをお賽銭箱のところまで持って来られて、蓋を取り、お参りをされ、お帰りに、献水像にそそいで行かれるのです。半分だけ。半分は、「これは『お下がり』ですので、これで毎日お茶をいただくのです」、そうおっしゃて、お帰りになるのですが。大変に有難く、これは是非、皆様方にもそうしていただきたく、ご紹介を申上げるのですが。
春秋のお祭、お正月、きょうの日だけでなく、先程若い方のお話しを致しましたが、お休みの日に、若い方がお見えになれば、すかさず、きょうは護國神社にお水を持って行きたいので、乗せていけと、そういって連れてきていただきたいのです。
小さい方が、お見えになるお家では、受験シーズンになりますと、天神さんにご祈願に行かれます。天神さんにも行っていただかなくてはなりませんが、皆様方のお家では、お祖父さん、あるいは大お祖父さんに、お水を持って頼んできたらどうかと、そう言って、お家を出していただきたいのであります。
新しい車が、お家に届くと、必ず皆、椿さんか、成田さんか、氏神さんにご祈願に行かれる。氏神さんにも行っていただかなくてはなりませんが、皆様さんのお家では、是非ここに来ていただき、私共に、交通安全のご祈願をさせていただきたいのです。
それは、単に交通安全のご祈願というだけでないのです。
五十年前のことを思い出して下さい。一家に一台の車。夢のようなことではないでしょうか。それが、二台も三台もある。盆と正月が一緒に来たような食事を毎日している。これ皆、御英霊の「いのち」と引き換え、御英霊の「いのち」の上にある豊かさであります。日本人は皆、忘れてしまっております。中には、靖國神社にお参りしていかんという者までおります。情けないことであります。でも、皆様方のお家で、この豊かさが、御英霊の「いのち」の上にあることが、伝わらなかったら、どうでしょう。御英霊には、何と悲しい、情けないというより、怒っておられるのではないでしょうか。
単に交通安全のご祈願というだけでなく、こんなに良い車に乗れるようになった、こんなに良い事があった、こんな事に困っている。皆このご社頭に来ていただきたいのです。 お婆ちゃん方がよくおっしゃいます。「小さい子に話してもよく分からん」。それは誤りです。人は齢を重ねると、必ず分かります。私も若い時、「親に成ると分かる」と、よく親に叱られました。親に成ってみると分かりました。
小さい方には、「わが家は護國神社にいかなきゃならない家なんだ」、それだけ言っておいてくだされば、必ず伝わります。言っても下さらない。連れて来ても下さらない。これでは、何も伝わりません。どうぞ命日祭には、これからは、お一人ではなく、お出掛け下さい。
このお社は、外のお社と違います。私共が、どんなに修行を重ね、良い祝詞が書け、上手にお祭が出来るようになりましても、皆様のお顔には勝てません。御英霊のお喜びは、ここに皆様のお顔があることです。
ここの神主は、皆様のお顔、お姿に勝てるお祭は出来ません。
どうぞ、何時までもお元気で、ここにお顔をお見せ下さい。
一度より二度、二度より三度、度々お出掛け下さい。
きょうは、お水をお持ちでない方が多いようですので、手水のお水を酌み、献水像におそそぎいただいて、お帰り下さい。お気を付けて。
ご健勝を、お祈り申上げ、ご挨拶と致します。
本日は、ご参拝有難うございました。

アジアの子に援助米(臼井貞光)

毎日新聞五月九日付夕刊の「神社関係者ユニークな運動、アジアの子に援助米送ろう」という、渋川謙一氏へのインタビュー記事は、地方の一神職にまで、反響が聞こえた。メジャーな日刊新聞の記事は、やはり影響力強大。神社人として、拍手と好意の言葉を貰ったのは、有難かったのだが。中に、辛い声もあったので紹介する。
米を送るという「行為を通して米作りの意義を再認識し」、神道者として、稲作の伝統意義を問直す機会としたいというのは、大いに分かる。だが「アジアとの連帯の気持ちを持ちたい。まずは我々日本の側に重点を置きたい」というのが、なんだか心許無いというのだ。
昨今の神道をめぐる諸問題を見直すよい機会として、組織の活性化を願い、アジアの豊饒を祈る。という事なのであろうが。「どう継続的に発展させられるか」一寸心配だ。
この国の豊饒の秘密を知る神社界が、「もの」足りて、五穀豊饒への感謝、「いただきます」と食す我らが心を取戻す為に、「余りもの」を送ろうと、聞こえなくもないが如何。 更に、辛口人はいう。「こめ」の問題は、神道者の発言を待っているのだと。
渋川氏も、休耕田に疑問を表しておられたが、豊作貧乏という経済用語を、豊饒の祈りをうける我らが神々は、何と聞いておられるのであらう。
行為として「もの」を送るという運動は、たとえそれが取敢えず、緊急を要しての事であっても、慎重を期さねばならぬ。今やれる事、やらねばならぬ事。今後何ができるか、何をなすべきか、「どう継続的に発展させられるか」。
そういう援助のジレンマの話とは、どうも違うようだが如何。と辛口人は、神道者に問うた。

バレンタインデーの「お供へ」(臼井貞光)

巷間、日本のお菓子業界は、バレンタインデーでの売上が会社の盛衰にかかはるさうである。年の瀬のクリスマスのことを思へば、これも日本人を語る好材料となる。いづれ経済大国日本を支へる消費文化の側面を見ることができるのであらう。
この日、社頭(愛知縣護國神社)での出来事。
御英霊の命日のお参りに遺族さんの持参された「お供へ」が、美しい包装のチョコレートであったのである。遺族は御英霊の妹さんで、お兄様は一度も貰ったことはないだらうから、とにこやかにおっしゃる。お預かりをした巫子も、「お兄様がきっとお喜びになりますわ」、と笑顔を返し御神前にお供へする。
何処も何もをかしくはない。その様子を目にした神職も、なかなか粋なお婆さまと、微笑ましく思ひ、聖バレンタインのことなど、思ひ出しもしない。さうして、もう少しすると二月十四日の社頭が、チョコレートの山になるのではと、一寸思ってみたりする。
何処も何もをかしくない。さうだらうかと、一寸思ってみたりする神職も、巫子さんに義理チョコなるものを、貰っていたりする。
「義理チョコ」なる言葉がなければ、家庭争議にもなりかねない。ヨーロッパの故事など何処吹く風?の、名言「義理チョコ」を生み出したチョコ業界の商魂とマスコミの技ありといふところなのであらうが。
その商魂のなせる技が、御英霊にチョコレートを贈る日となった、わが社頭での出来事を聞き、本来の「愛の日」・聖バレンタインの故事を思ひ、次なる作戦を、考へてくれないものだろうか。と「義理チョコ」創案の天才に期待した一日であった。

家庭のまつりの振興に向けて、祖霊祭祀の視点から(臼井貞光)

家庭祭祀の中心は、神棚奉斎である。
かういふ言葉が、先づ神職の口から出る。この神職の合言葉が、何にも増して今日を象徴してゐる。今、この言葉の示す今日的状況とは何かを、問ふてみたい。
とはいへ、何から考へはじめるべきか。取り付く島もない事のやうに思ふ。事は、絶望的状況と見るか。否、神棚の無い家庭が少なくなっただけで、初詣や厄祓の様が、さほどに変はらず、更には葬式や法事など、どれ程の変はりがあったと見るか。いづれにせよ、この現状を見る時、ただ神棚だけが無いといふ事の象徴に、行き着く性急さを思ふ。
確かに、古来私共の日常が、神々と共に在り、いはば神々との対話の裡に、時が流れ、歴史が育まれて来た。さう考へた時、今だうだらう。今日の日本人は、神々と共に悠久の時を過ごしてはいないのであらうか。日本人の日常の危機が、神棚の無い事に起因してゐるのであらうか。
わが国の家庭生活の日常に、何が起きてゐるのか。占領憲法による「家」の崩壊が叫ばれるが、その象徴的現実を神棚奉斎により改善されやうか。
だうも、はじめの一歩として「家庭祭祀の中心は、神棚奉斎である」といふ合言葉は、中心に神棚が在りさへすればといふ、短絡的思考の性急さを思ふ。合言葉が当を得ていないとは思はないが、そこには神棚が無くとも、歴然として今日今尚存在してゐるといふ、神々と共に生きる日本人の生活を、その事実を見過ごしてしまひさうである。
それは、民法改正による「家」から放り出された「核家族」の悲劇を、伝統的家族から止む無く見放された流浪家族とみれば、流浪の民の忘れ物が、「神棚」だけでなく「ご先祖さま」であることに気が付く。
われ等が「神々」といふは、皇租天照大御神と八百万神と「ご先祖さま」であった。皇室の弥栄を祈るわれ等の願ひは、「国家」といふ「家」の繁栄である事に、思ひを致さねばならぬ。
換言すれば、わが神道が「いのち」のつながりといふ悠久の時の流れの裡、「家」の構造・「国家」の構造、歴史即ち伝統文化が見へて来るのである。
「いのち」の話として、初詣も厄祓も、勿論葬式も法事も語る裡に、皇租を祀る「神宮」が話題とならう。

過激派暴挙も「むすび」の機に(臼井貞光)

七月九日秋田縣護國神社、七月三十一日奈良県の三神社、八月二十四日福岡県の門戸口天満宮、御社殿御炎上、いづれも大嘗祭反対の過激派ゲリラの放火による。
全国の神社は今、その対策に御本殿を始め建造物・境内の警備に、おほわらはである。自主警備体制の強化、警察との連携、警備保障会社との契約と大変である。
しかし、これも出来得るかぎりおいてといふ事である。無人の兼務神社の神職等は、狙はれれば、手の打ちやうもない。と、頭を抱えて、異語同音の嘆きの言葉を漏らしてゐるのが、実情なのではなからうか。
全国には、あるに違いない。氏子・崇敬者による不寝番警備の神社が。
一年三六五日、二人つづでも不寝番は、延べ七三〇人。せめて御大典が終はるまで氏子崇敬者に、喜んでご奉仕願えないものであろうか。
わたしは、過激派の難儀も、神さまと氏子崇敬者の新たなる「むすび」を、生みだす千載一隅の機と考へたい。
私共は、積極的に氏子に対して自主警備体制づくりを呼びかけ、難局を克復していきたい。

神社と車椅子スロープ(臼井貞光)

数年前、御社殿に車椅子スロープの設置を提案したが、議論の結果採用されなかった。結論だけ聞くと、時代錯誤も甚だしいと思われるが、極めて明解な論理が会議を支配した。スロープだけ設けても意味はない。参道は砂利であり、そこから解決せねば、容易に参拝をしていただく事は出来ない。さすれば、現行の対応が一番である。参道に車椅子を見るや、拝殿まで階段にして七段を職員がつるのである。これ以上丁寧な接遇はない。という訳で、未だにスロープは無いのである。
勿論他に論議もあった。参道を舗装にする余裕のない事も(これが設置できない本当の理由なのだが)、スロープの管理をどうするか、スロープが出来たからといって、どうぞご自由にと、身障者自ら車椅子を駆って事故はないか、七段ばかりの階段ではないか、職員がつる以上の丁重な対応はない、というのが話の落着く先であった。
それなら安全なスロープを設け、職員が押せばいいのだ。皆分かってはいる。余裕のないことは、総てに悲しい。
これが、奉務神社での話である。
この春、足の悪い母を車椅子で連れ、参宮した時のこと。
玉砂利を行く車椅子の、何と大変な事か、車椅子を内宮石段上にあげる事など不可能。神楽殿では、胡床も椅子もダメ、足を伸ばしたまま横を向いての御神楽奉納。
石段下の参拝で充分有難い、持ちあげて貰うなど勿体ないとも、足を伸ばしての御神楽では申訳ない、罰が当たるとも、母はいった。
そこで悟った。身障者にとって、神主に持ちあげて貰っての参拝など、有難というより身障者であるがゆえにと、一層惨めさを悲しさを感じさせていただけなのだ。丁寧で一番の対応だ。と、いい気になっていた事が、恥ずかしい。
なだらかでゆったりとしたスロープを設け、車椅子を押させて貰おう。

神社広報のありかた(臼井貞光)

愛知縣護國神社では、英霊の遺書を社頭に掲示しているが、同時に同じものを、初穂料等奉納者の礼状葉書の宛名の下を利用し、印刷している。
これには、多くの反響があり、感激のお電話・手紙と共に、こんな所に遺書を載せるなど、英霊に無礼ではないかと。賛否いずれももっともな意見がよせられる。
神社としては、いささかの危惧はあるが、英霊を冒涜することではないとの判断から、既に二十年近く、掲載をしている。
遺書の葉書掲載は、広報の手立てはあらゆる機会を捉えてという職員の提案で始めたのであるが、おそらくこの「あらゆる」が神社広報の問題となろう。
そして、広報誌の編集発行、ポスターの作成掲示、一般メデアでの広告・告知等では、「神社らしさ」ということが問題となろう。 例えば、広告代理店と広報戦略を考える場合、代理店に「あらゆる」を教示してもらい、神社は「神社らしさ」ということを代理店にレクチャーせねばならない。当たり前の話だが情報交換の不備は、広報目的が読めないまま、代理店は手段確定を急がせられ、神社は自らを語り得ぬまま、代理店不審に陥る。
独りよがりの広報などあり得ぬ。神社とはを語り得るマニアル、明解な教学的「神社らしさ」の整理がなくば、本来広報など必要にならないはず。とすれば、目的と効果の達成は、最良の手段によるものでなくてはならず、そこに教学の達成がかかっているのである。 教学の目的は、その効果を得るものでなくてはならず、当然その手段は、教学に適うものでなくてはならない。
例えポスターが、タイポグラフィーのみであったとしても、その活字一つに、教学の想いが感じられるものでなくてはならない。

戦後生まれ(臼井貞光)

昨年は、終戦五十年。毎日社頭で、二つの話をした。
一つは、先人が百二十数年前、国事殉難者を英霊として「神社」に奉斎されたこと。
もう一つは、戦後先輩方がご遺族・崇敬者と共に、一年三百六十五日、五十年間、一日として怠ることなく、英霊にご奉仕をされたこと、である。
五十年間一向、毎日、英霊のお祀りをされたところが、何処に、どれだけありませう。 だが、我らは五十年、百年の話をしてゐるのではない。五百年、千年、二千年後、英霊のお祀りは、何処にあらう。 必ずある。靖國神社・護國神社に。それが、この国のすがた、である。
維新先人の見識。戦後先輩の見事な対応。そして、熱誠五十年の歴史。「日本の心」に胸をはり、今年も又、毎日この話を続けよう。
吾、祭祀はもとより、志は、英霊二百五十万の「いのち」と、その何倍かのご遺族の「悲しみ」、その「語り部」たらん。

ご遺族に叱られた
今、この国の豊かさは、英霊のいのちと遺族の悲しみの上に築かれたものである。
ここまではよかった。
五十年前を、思ひ返して下さい。当時の一週間分の食事を、今、一日で食べてゐるのではありませんか。どうでせう、と話したから大変。
神主さんは、若い。馬鹿を言っちゃいかん。半月分を一食で食べてゐるのだ。分かってゐないね。
といふ訳である。
戦後生まれは、なかなか分からん。先輩諸兄、もっともっと大きな声で、お叱り戴き度、お願ひ申上げます。

母の乳汁(臼井貞光)

この画は、明治の洋画家青木繁の作品「大穴牟知命」である。古事記の出雲神話の一節を画いた作品
大穴牟遅神(大国主神)は、兄弟である八十神に従い、大きな袋を担がされ、稲羽の八上比賣を娶るために行く。ご存じ、稲羽の素菟を助ける話に続く件りである。
大穴牟遅神の教えは
今急く此の水門に往きて、水以て汝が身を洗いひて、即ち其の水門の蒲黄を取りて、敷き散らして、其の上に輾轉びてば、汝が身本の膚の如、必ず差えなむものぞ
仰せのまま、元の姿と成り、救われた素菟は
大穴牟遅神に白さく、此の八十神は必ず八上比賣を得たまはじ
という、予言の通りに、八上比賣の返事は大穴牟遅神に嫁ぐという。
八十神は怒り、大穴牟遅神を殺す。
神産巣日之命は
貝比賣と蛤貝比賣とを遣せて、作り活さしめたまふ。爾れ 貝比賣きさげて集めて、蛤貝比賣水を持ちて、母の乳汁と塗りしかば、麗しき壮夫に成りて出で遊行きき。(神典)
と、甦るのである。
作品「大穴牟知命」は、その場面を画く。画面右が 貝比賣である。モデルは、青木繁の長男を産んで間もない、福田たねという女性である。子供は幸彦といい、後の福田蘭童である。
愛する女性がわが子を生み、母となり豊かな乳房を子が含む。わが子は、母の乳だけで日々大きく育つ。母乳は、正に「いのち」である。福田たねを見る青木の目は、甦る大穴牟遅神の物語、その光景を見るのである。福田たねは、貝比賣である。神話の画く「いのち」は、今われ等の「いのち」の話である。

性差に差別なく。今、話題の話だが。
昔、婦女教育という言葉があった。今、性急に、この言葉に差別の匂いを嗅ぐのをやめ、当たり前のことだが、男は、絶対に母になれない。在るのは、母に成る可能性のある人と、絶対に子を産めない人という、性差である。
母性に縛るな、と聞こえて来そうだが、「母なること」の外に、尊きことがあろうか。人の母に、男はなることが出来ない。何者にも替え難い人の母は、すべて女性である。
子を産まないと宣言をする女性が、強姦にあい、直ぐさまわが子の殺人者に成る。その危惧は、そのおそれを教える教育の欠落を、今思うからである。そして、母に成ることのできぬ男に、わが子を産み育むわが子の母、わが妻を愛しむ教育の欠落を、今思う。
母の乳汁、その「いのち」の神秘は、永遠に神秘である。神話は、いつまでも、どこまでも神秘なる「いのち」を語る。
今、婦女教育の亡霊をいうつもりはないが、昔の話だなどといわず、婦女なる尊き「母なること」を語りたいものである。

神社本庁総長の諮問機関『神社基本問題研究会報告書』「(7)女子神職の問題」の一節。 女子が神社に奉仕することは、神道の歴史伝統に基づくものであるが、現在のやうに一社の長となって、社務全般を司どることは、神社本庁設立後のことである。
歴史的にみて、神明奉仕における男女の立場の違ひを指摘することができるが、このことは男女の能力的差異を認めたことによるものでない。女子神職の健鬪を、今祈るものである。

還暦雜感(臼井貞光)

昨十一月の下旬「ザ・密会」なる集ひに招かれた。密教宗派の青年僧達が企つ懇談会であつた。
もう十年近くも前のこと。神道青年会を通じて宗教連盟青年会に招かれ、講演をした。
反靖國報道、八月十五日の喧騷について話す裡、青年僧に問ふた。靖國・護國の境内を訪ねたことはあるか。神前読経といふ言葉もあるが。我が愛知縣護國神社に八月十五日神前読経に来る気はないか。隨分と、大仰な物言ひであつた。が、青年僧は、小職の話を真正面に受け留め、八月十五日は無理だが、翌十六日の献燈祭なら、是非神前読経に行きたい。神道青年会を通じて申し出があつた。
何と、献燈祭当日、青年会員諸君と共に、早くから炎天の下、大汗を拭ひながら献燈祭の準備を手伝ふ、青年僧の姿が境内にあつた。
そして、五千燈の雪洞に御神火が点り、神道青年会員の御神楽奉納の後、法衣の青年僧の神前読経が始まる。
靜寂の中、微かに揺らめく、一灯毎の蝋燭影絵を、先師岩本宮司は、英霊の囁きと表現したが。突然の如くに、あの美しき声明の音階、般若心経の読経が始まると、ご参拝多くの大合唱となった。これ程に般若心経を諳んずる人の多きことかと、感嘆をしたのである。
それから、青年僧の何人かは、毎年神前読経にやつて来る。その青年僧逹の集ひである「ザ・密会」に、二つの話題を持つて行つた。一つは「沖縄戦集団自決」の話、もう一つは「ヒトの皮膚から万能細胞(IPS細胞)」の話。そこでの話題、驚きの展開、一寸、聞いてみたくはありませぬか。興味津々。
こんな一日を重ね重ねて、還暦を迎へた。

女子神職さんへの想いいれ(臼井貞光)

愛知県女子神職会設立十五周年、まことにおめでたく、心よりお慶びを申し上げます。
わたくしごと、師匠として仰ぐ神職、その第一が、女子神職朝賀百合子宮司であります。この話、またかとお思いの方は、本誌平成十三年一月号の拙稿をご高覧の方であります。しかしながら本稿は、その続きではありません。
今日あるは、一人この朝賀宮司のお蔭あればこそ。女子神職さんへの想いいれは、小生人一倍のこと。にもかかわらず、なぜ女子神職を採用しないのか。と、厳しき叱声が聞こえる。品格なき二枚舌、人格を疑う。と、いうわけであります。今流行りの品格など無きことは、自ら恥じております。が、この際、出稿の求めをいいことに、厚顔のそしりを承知で、言い訳を記す。

神道が西洋でいうところの宗教であるとは考えぬが、いづれ「家の宗教」の外ではない。戦後の出征神職寡婦、今の少子化神職子女、あるいは神職家の嫁、彼女達をして「家の宗教」を護る宿命が、女子神職の道として、真っ直ぐにあることは間違いない。
だが、神職の資格を得たので、若き女子の採用に門戸を開けといわれても、彼女が何時の日か嫁ぐであろう、その「家の宗教」が神道であろうか。と、斟酌するのは、当然のことではなかろうか。その斟酌の不当をいくらフェミニストに叱られようが、女子神職たらんとする彼女の「志」とは別に、小職にはとても合点がいく話ではない。その斟酌が、大きなお世話といわれようとも、一人小職が思いをめぐらすのは、いらぬ親切なのか。

われ等は「家」の崩壊を断じて望むものではない。
われ等は今、未だ捉え得てない巨大なものに遭遇している。と、いうのが私の言い訳である。

お天王さまと私(臼井貞光)

氏神さまのご社報から、寄稿のお許しがあり、光栄に存じ上げます。
御祭神お天王さま建速須佐之男命との御神縁を、記させていただきます。
神職子弟ではない私は、何ともいいようのない一寸した偶然から、國學院大學の夜間2部神道学科に入学した。この偶然の話は、他稿にゆずるが、とにかく昼間、旺文社という出版社でアルバイトをしながら大学に通いはじめた。二年が過ぎ、三年生になる時、神社の実習生として奉仕をしないかと、友人を通じてお話をいただいた。社務所で起居し、三食付き下宿代もいらない。平日は十六時頃大学に出して戴き、大学の授業料等費用も頂戴できるという。一も二もなく、お世話になるべくお願いした。
その神社が、練馬区石神井鎮座の氷川神社であった。すなわち御祭神は須佐之男命である。二年間お世話になり、卒業と同時に奉職したのが、津島市の津島神社。御祭神は須佐之男命を奉齋する総社である。一年後、事情があって現在奉職の愛知縣護國神社に転出したが、なんと氏神さまが、須佐之男命奉齋の那古野神社。そして着任直後からたびたび、年に何度もお手伝いに参上。若い時は百人神輿のお伴をして、若宮八幡社往還の御巡幸供奉をさせていただき、愛知縣護國神社の宮司に就任後は、御例祭毎に参列者を代表して玉串奉奠の栄に浴するのである。
爾来三十五年、須佐之男命との御神縁を意識せざるを得ない神職生活がはじまった。つまり「お天王さま」が私にとって、護り神の中心に居られる想いで、今日まで神明奉仕が続いている。その間、愛知県神社庁研修所の神職養成講習会で十五年程の間、古事記の講読を担当した。いつも須佐之男命登場の場面になると、話が長くなり、前に進まない。因幡の素兎(しろうさぎ)、大國主神の登場で、またまた自ら驚くことは、父の出身は鳥取市、因幡の国なのだ。わが故郷、ご先祖さまは、出雲神話の舞台で育まれたのである。
昨年は六月のこと、御縁があって中村区柳橋に御鎮座の白龍神社の宮司を兼務することになった。なんと、旧社名が津島神社で、もちろん御祭神は須佐之男命。この上、お天王さまは、どんな御神縁を、私に下さるのであろうか。

境内で想うことども(臼井貞光)

日ごろの想いを、記させていただく。
愛知縣護國神社は、明治二年創建の「旌忠社」を以って、その濫觴とする。社名は明治八年「招魂社」に、同三十四年には「官祭招魂社」、昭和十四年に現在の神社名に改称。御鎮座発祥の地は現在の昭和区川名山町で、大正七年に陸軍城北練兵場、現在の北区名城公園に御遷座となり、昭和十年現社地に再び御遷座。今日に至るのである。
現在地に新たに御社殿を築き、大鳥居を建立、敷地に土塁を廻し、杜の造成から数えて七十年余。現在の社叢と昭和十年の御造営当時の写真を比べて驚くのは、杜の立派さである。しかしながら、小職奉職の昭和四十八年頃、既に今日の社叢と変わりない程で、杜全体の樹高は高くなったものの、当時すでに名古屋市指定の保存樹が十本もある程に、豊かな杜となっていた。
写真で分かるように、ほとんどが若木の植林による杜も、三十年もすれば神社の杜として認知される社叢ができ、六十年もすれば驚く程に立派な神々の杜らしくなったのである。いつも杜で思うことだが、世間で、木を伐るな、木を大切にというグリーンキャンペンよろしく、目にする標語に些か違和感を持つ。木は伐ってもよろしい、大切に上手に木を使い切る。そして新たに木を植え、育てればいいのだ。そんな想いに駆られる。
自分の箸を携行しよう。割り箸を止めよう。一方で、割り箸程度のことでは、環境保全や林業の危うさの救いとはならぬ。むしろ、割り箸のような間伐材の使用抑制が山を瀕死に追い込むのだと、素人を右往左往させる話を耳にする。日本の紙の消費が、開発途上国の森林を破壊したと、良心の呵責を導き、紙のリサイクルを誘導されるが、一方で、開発途上国の森林材は、紙パルプには使われてないと、教えられたりもするのである。何が本当か、どれが常識で、何が非常識か分からない。
御祭神英霊は、「いのち」を賭してお護りになったこの国の今を、どうご照覧であろうか。
平成の始め、御社殿の増築計画を立ち上げた。昭和三十三年戦災復興造営の御社殿は鉄筋コンクリート造であった。空襲炎上の旧社殿は木造であった為、燃えないコンクリートの造営が当時の総意で進められたそうだ。コンクリートは頻繁に塗り替え等の必要があり、その上百年余りという寿命の短いコンクリート造は止め。増築は是非木造での造営というのが、今度はわれ等の総意であった。ところが現社地名古屋城の郭内は、条例により不燃建造物以外は建築許可が下りない。已む無く総意に反し、またもや鉄筋コンクリート造となったのである。
世情、名古屋城本丸御殿復元が喧しくいわれる今、復元というには総檜造であろう。ならば、条例を変えてか。国土交通大臣認可か。いづれのこと可燃建造物にも建築許可は下りることとなるに違いない。それなら、本丸御殿復元工事が始まってから、当神社も増築工事を開始すれば、いいのに。と、どこかで、誰かにいわれそうだ。
などなど、神主の想いは、ご笑覧戴くに外はない。御祭神英霊には、ただただお詫びを申し上げ、境内に佇む昨今である。

青木繁 私論(臼井貞光)

青木繁 私論(1)
青木繁 私論(2)
青木繁 私論(3)
青木繁 私論(4)

還暦から十二年(臼井貞光)
  職を辞し妻を往くりて鰯雲
と、終焉を宙に吐く日々なのだが。未だこの世に、未練たらたらなのか。世の男は、妻に先立たれるや、先は無いのが普通らしい。が、だうも普通ではない。
 年男、これが最後かと、所感を遺したい。
 英霊奉斎社奉仕の全うも適はぬ非力を、悔いては居るが、未練である。
 昨秋、大嘗祭直前の日であったが、内宮御垣内参拝に雨儀廊工事が始まる様を目にして、天皇陛下御親謁のご準備なのだと、令和の御世に生かされる己を実感した。
更めて、英霊が身命を賭して護り果した、この国を目の当たりにしたのである。そしてその国を、我等は護り抜けやうか。寒さが肌を刺さないか。
 二百五十万の英霊は、だうご照覧あらう。彼等の遺した祖国は、少なくとも彼等の嘉賞とする国でなくてはならぬ。我等の所業を、何とご照覧か。それにしても、英霊の希ひは、我等の希ひと、心得て居やうか。政治家の所業も、勿論昨今仲間の不祥事も頭を過らなかった訳ではないが。この国が、この国の文化、郷土や家族が無くなってはならぬと、身命を賭した英霊の志は、国民の意思でなくてはならぬ。それは、子孫繁栄。少子、人口問題放置は、亡国の途次。この国の文化の粋は、皇室であり神宮とすれば、神宮護持は英霊からのミッションであらう。神宮大麻頒布は、英霊の遺言である。
 何する事もなく職を辞し、恥づかしき限り。妻の旅立ちの日、孫五人と送った。何故に孫五十を数へる人生を送らなかったか、無念と思はぬかと。独り言ちるも、あんたも馬鹿ね、の亡妻の声に苦笑するが。馬齢を重ね、余命を数へる能もなく、いつまでか分らぬ旅を続けねばならぬ。
英霊奉斎社にあって、英霊のミッションであるこの国の子孫繁栄を只管祈り、結婚式、安産祈願、初宮詣、七五三と、家族加護の厄祓を祈願し続けた。さて、これからだが。
英霊のミッション、神宮大麻頒布の遺言を忘れた訳ではないが、退職の日、英霊奉斎社の社頭に額ずき、これから何をすべきか。
自づと合点した。これまで、靖國神社献詠・献句に家族の今を詠み、英霊に捧げる歌ではないと批難され、笑はれやうと、英霊に奉告すべきはこれと、駄作を詠み続けた。これからも、変はらず家族の今を奉告しやう、と。
声変はり背丈越す孫中卒式
英霊の戦友、亡父の曾孫が、立志の時を無事に迎へたことを、昨夏も靖國神社に献句、奉告した次第である。

「お陰さま」で試考 ―神宮大麻頒布従事私考―(臼井貞光)

 寄稿依頼に応へて、二点を老婆心乍、記します。
 何故に、神宮大麻頒布従事者たらねばならぬか。即答、神社本庁庁規に一目、神宮を本宗とありませう。と、言挙げするまでのことはなからう。と、看破されて、御意となりませうか。
 本庁傘下皆、意は同じか。
 話は、これで落着しない。
 少なくともわたしは、英霊奉斎社の社頭で、何故と、問ひ続けた。問ひは、かうだ。参拝者曰く、ここはお伊勢さんの出張所なの、と怪訝さう。うむ、まあ、さうですねと、本庁庁規を頭に画き、と答ふ。
 で、増頒布可能か。といふと否、未だ目標は遠い。ならば、何が不備であるかである。当方の想念である本宗も庁規も、参拝者に無縁。当然として、神宮への誘ひは無効である。そこで教化なるものが叫ばれる。神宮の国民教化作戦の開始スロウガン「神宮大麻一千万家庭頒布」が掲げられるのであるが、教化の何が無効で、達成が遠いのか。
その一
 わたしは、英霊奉斎社の社頭に立って、神宮大麻頒布従事者として、本庁教学指針への理解と対応と、教化実践姿勢への不備を思ひ、その精査の必然を課した。
 今社頭に立つ神職として御祭神、つまり英霊と神宮とのいはば距離を、自身がだう目測し、それを語らうとして居るのかを自問した。その視線の欠落に、直ぐ様気付いた。それは、英霊の目線である。
 わたしの自らに課す奉務指針は、ことに当たって「英霊は、だうご照覧か」である。ことは簡単明瞭であった。
 英霊の一つしかない「いのち」は、何を賭してのご所業か。日本及び日本人、国土文化伝統の防衛。かけがへのない最愛の妻子父母郷土が、亡きものにならぬを期して、のご偉業である。
 この国が無くなってはならぬの一念である。この国の歴史文化伝統の粋が、神宮であることを疑ふ者はあるまい。いふまでもなく皇室を語らずして、この国は語られまい。神宮は、われらの歴史文化伝統の粋とすれば、英霊のご偉業は、神宮をお護りすることであったと、合点した。
 わたしは社頭で、英霊に額ずき、英霊奉斎社の神職として、御祭神のご偉業が神宮護持であったことを、明瞭に覚へさせられた。
 英霊奉斎社の神職は、当然のこと乍、御祭神のご偉業のお教への如く、英霊の道である神宮奉賛のあらゆるこ事柄に従はねばならない。その一つである神宮大麻頒布は、いはば英霊のミッションと合点したのである。
 神宮大麻頒布は、英霊のお陰で、今この繁栄の豊かなるこの国に生きる国民の、英霊奉慰顕彰の先達を自任する神職として、このミッション遂行の先陣を切らねばならぬと、合点した次第である。
 このミッション渾身の遂行をして、英霊のご照覧に適ふと確信したのである。
その二
 前段で、わが頒布従事の何故を、先づ述べた。
 次に述べるは、頒布従事者の是非である。わたしの想ひは、近世の「お陰まゐり」についての話、である。
  月影の至らぬ里はなけれども
    眺むる人の心にぞずむ
 五十余年前、明治神宮での研修会で、伊達巽先生に、この歌を示されての講話を拝した。その折の説諭は、月影に気付かれよ、といふお教へであったのだが、後日この歌が法然上人の詠まれたもので、ある時に宗門高等学校の校歌で、甲子園球児の唄うを観て、多くの人々の知る歌とはいへ、仏教なる浄土宗の宗門歌を、神々のお陰を語るに示す神道者の巨人振りを、更めて拝した。
 あらゆることに、神々のお陰を思へと諭される伊達巽大人の言霊に、「お陰まゐり」の喧騒が憑依した。わたしは、初ひ山を踏む、その登山口で「お陰」の分ることが、神道者と合点した。
 で、神宮の「お陰」の分らぬ者に、神宮大麻頒布が出来やうはずはない。と、稚き日の神道巨人との邂逅を告白し、日々社頭で御祭神の「お陰」を語るが神職のミッションであることを、今忸怩たる想ひの告白と共に、大麻頒布従事者諸兄に、老婆心乍ら、申し上げる次第である。
  月影のすむ人々に誘はれ 六月十二日記

晴読雨読、齢七十四の繰言(臼井貞光)

  桜咲き 熱田の杜の 学舎に 入学式は 神主始め
  春爛漫 神主めざす 若人等 学び入り初む 熱田の杜に
 昨令和三年最初の講義に、拙詠二首を眩しき若人ピカピカの一年生に贈つた。何故下手くそな歌をと、訝る向きもあらう。単に、若者に媚びての所業である。五十年の奉職生活、終はつた人乍、お誘ひありて月一度の歌会、ことの緒会(熱田神宮献詠祭奉仕の歌会)で、作歌のご指導を授け始めたと、自身も初ひ学びの輩であると、わたしも熱田の杜の一年生と、敢へて恥を顧みず媚びてみたが、孫世代との五十年の距離は、余りに遠い。
   〇
 担当宗教概説の故、石原慎太郎の「巷の神々」を読み返さうと繰る裡、近年法華経に関する著作ばかりか、石原の法華経現代語訳の上梓を知る。その冒頭「解説 歴然とした哲学と生きるための方法論」といふ僅か十五頁に、石原の信仰と宗教観が端的に語られるに出会ひ、複写。この一月十八日に授業で配布し、石原の信仰を知る処を述べた好文を示した。のだが、何と二月一日の逝去には、驚いた。
 その時、一緒に配布の複写は、金光教の教会で育った小説家小川洋子の「私と宗教」といふ対談、これも二十頁足らずで、映画にも成った「博士の愛した数式」の著者の信仰が率直に語られて居る。これは全文朗読した。社家育ちとわたしのやうに、神棚も仏壇も無い家庭に育った者とは、隔世の感の如き違和がある。が、その馴染めぬ隔たりは、双方に払拭不能の何物かは、自ずと他宗教への違和感を埋める端緒となる。といふのが、わたしの考へだが、小川洋子の幼少、金光教教師の祖父の印象の鮮明は、金光教理解の一助となるも、かの祖父世代は、遠い。
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 昨年は、瀬戸内寂聴の訃報にも接した。
 一昨年、寂聴の「『般若心経』について」と題する講演録を、教室で読むだ。寂聴は必ずしも当方にとって、好もしい人物ではないが、語り伝へる文章家の授業を受けてみやうと、皆で読むだ。
 実は、般若心経を知らねば、と強烈な経験があり、わたしの嗜好の被害に、学生諸君は合った訳だが。奉務社の夏、献燈祭お手伝ひを兼ねての奉仕、曹洞宗僧侶の神前読経始まるや、何と境内揚げて般若心経の大合唱。こんなにも参拝者皆が、般若心経を諳んずるを聞き、愕然とした。ここは神社だぞ、参拝者皆は仏教徒なのか。傍らに立つ神社役員の弁、「神主さん、今日はいいことをしてくれた。神さん大喜びだ。」これにも愕然とした。さうだ神さんも仏教徒だ。と、脳天を割られた。だが、今も神前読経は続くが、大合唱は起きない。
 或る宗教者の姿を見せる寂聴の講演は、字句に振り回されることなく、今を語る。勿論、インドも釈迦の教へも語るのだが何より、われ等が日常を語る。
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 寂聴余話。といつてもわたしの話。五十年前、西田長男博士の授業で、肝心の文脈を失念したが、神主はもつと源氏物語を読まねばとの言。で、読み始めたが、感情移入どころか、誰が誰に話しているのか分らず、断念。で、与謝野源氏を読むだが、西田先生の意は分らぬまま五十年。で、寂聴源氏を読み始めた。何しろ性愛小説の大家、勝手に適任と完訳を期し、購入。ところが一向に馴染めず、与謝野訳を見ると断然いいのである。で、新旧訳与謝野、谷崎源氏と、円地源氏・橋本源氏、近著角田光代訳をと、晴読雨読の予定満杯。生涯、紫式部に相見えることは、なささうである。上古平安は、遥かに遠い。
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  リセットと 立春大吉 ヨーイドン
 昨年、卒業生に色紙を乞はれ、恥を顧みず右を記し贈つた。遠くとも七十四も一年生、といふ訳である。
令和四年 立春の記

事始余話1(臼井貞光)

ある日、酒席でのことだが、あなたの神道事の始りは如何にと、突然の後輩からのお訊ね。設問の真意が定まらぬまま、わたし退職十年、明年後期高齢者、終はった人として、後輩に更めて、語らねばならぬ神道事始など、はたして私にありや、と自問。その席に居心地悪くとも何かを語らねばと、気の利いた話をせねばと、焦ってはみたものの、やがてのこと、遺す言葉を探す己に苦笑して、己に遺さねばならぬ何物もある筈はなく。そこで、やうやくのこと、日頃若き人に度々語る、わたしの口癖。あなたの神道との意識的出会ひは、いつでした。どんな事でした。といふ、昔日のわたしの質問を、彼は今わたしに問ひ返したのだ、と思ひ当たり、わたしに遺す言葉など所望せし人などある訳もなく、いつもの如く「蛍雪時代」といふ受験者向け全国大学総覧に、國學院大學二部文学部神道学科に神道の活字を見つけ、シンドウと読み、それがシントウと発音する常を知るは、入学後のこと。といふ、わたしの神道の事の始まりを繰り返した。

件の後輩は、さうでしたよねと。社家育ちの彼は、わたしは初めからシントウでしたからね。と、彼はこの一つ話を覚えていた。そして、逆に社家二十数代目の神道事始を聴く、愉しき宵となつた。

遺す言葉などないが、「くさなぎ」に寄稿を許され、いづれのこと教室の学生諸君それぞれの神道事始を聞かせて戴くを愉しみに、わたしのそれを語つてみやう。

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宗教学の講義で、創唱宗教とは異なり民族宗教に宗教的コンバートといふやうな、つまり神道などに回心いはば入信といふ現象はない、といふ概説をうかがつた。

さうか、日本人は自づから神道者か、といふ意は、仏教徒も神道者なのだ。当然神棚も仏壇もない戦後の核家族に育つたわたし如きも神道者なのだと。さういはれてもと、首を傾げ乍らも一応の納得はした。だが、その定義は、神道をして宗教に非ずといひたげなのに気付いた。神道とは、の設問の厄介さに向き合ひ、先人の言に接する裡、その論の多くが日本及び日本人論であることを知る。さうかうする裡、袋小路に入る。自問は、日本人クリスチャンも神道者なのかである。明らかに否であらうか。出口が見つからぬ。当然のこと乍ら、それは神道の宗教的自覚に求める外になく、宗教論などではなく、いはば神道の宗教的側面への覚醒といふは、わたし自身の宗教性を自問すれば、こと足ることに気付いた。己自身の来た道行く道は、自づと日本及び日本人の来た道行く道を問ひ、人倫の道を問ふこととならう。と合点したのである。

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地方出の核家族に仏壇はなく、年始めの初詣の外に信心らしき気配のなき家庭。集落と集落の間に造られた戦後の公営住宅。両集落の鎮守の杜の氏子とはならず、まつりへの参加も適へられず、縁日の賑はいだけは享受しながらも、まつりの部外者であつた。ところがである、神道を学び始めてすぐに、わたしは父母に出会った。何と己への躾たるものが、神道ではないかと、合点したことにある。

ご案内の如く、団塊の世代、日教組被害者の会自称会長、まるで異星人のわたし、なのに神道を学び始めるや、父母に目見えたのである。何といふことか、およそのこと不信人と映つて居た両親が神道者とは。来た道も行く道も父母に学ぶが、神道者と合点した訳である。が、ご先祖さまの一番近き人が、両親と気付けば、

ご先祖の一人欠けてもわれは居ぬ

わが友の句であるが。来た道も行く道もここにあり。なれどこれは、神道者に限つてのことではなからう。と、またまた袋小路。古事記の序,稽古照今をめぐつて、日本及び日本人論は喧しいが、外国にだつてご先祖さまへの崇敬はあらうと。なかなか神道は見えにくく、袋小路は奥に広がるばかりである。

  父母二孝二兄弟二友二夫婦相和シ朋友相信ジ

つづく

事始余話2(臼井貞光)

にわかな寄稿依頼に、今日の想ひを綴る。

 卒業生は、武漢風邪パンデミックなる禍の裡、後半はウクライナ戦禍に起因する世情、その儘ならぬ事多くを推察し、見舞ふ者である。

 卒業諸君には、小生紹介し残した書籍『仏の発見』と、贈ることばを栞に記した。

  お陰さま 前後左右に 他事無し

である。前後左右の語は、ある人には今日も明日もとし、あるは昔も今も等、皆違ふ。だが、思ふ処は皆同じ。自分の存在は、時空間すべてに、自分以外のもののお蔭。といふ意である。

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さて、ロシアのウクライナ侵攻一年、戦の理は、たとへ問答無用が卑劣の謗りに晒されやうと、双方にいひ分があらう。さう考へれば、客観の論評こそが怪しい。ただ、世界の大勢は、ロシア批判なのだが、中国の動静始め、さう簡単ではない。さらにエネルギー問題に拍車がかかり、仲裁など取り敢へずの停戦誘導の兆しすら覚束ない。

わたしは一昨年の秋、たまたまなのだが、東方正教会への関心から、ソ連崩壊とロシア正教とプーチン理解に示唆的と評判の『ろくでなしのロシアープーチンとロシア正教』中村逸郎著を読み、殊にロシア正教会の教会に、聖人イコン画の如くに、プーチンの肖像写真掲示の記述が衝撃的で、その記憶の中で、ウクライナ侵攻の正当防衛を語るプーチンの、ニュース映像を見た。

何故に今、これを記すかといへば、数年前のことだが、NHKTV新日本紀行で、日本正教会の司祭が東北の農村を巡回して、家庭での祭祀映像の印象が、蘇つた事にある。信者と聖職者のやり取りが、その会話が厳格な教義を介してではなく、極めておはらかなその包容力が、豊かな伝統の土着民の間に、寛容と慈愛に満ち、確りと根を張り、多くの民を救ふ民間信仰の如くに映つたのである。われ等が地方の屋祈祷奉仕の神職に、変はらぬ振る舞ひに見えた。わたしの思ふ、教義の厳格なキリスト者とは違ひ、むしろわたし自身にも親しみを感じる聖職者が居り、わたしの裡に、キリスト教への勘違ひを諭された。

何となれば、当方の無知に起因する事ばかりで恥ずかしいが、明治日本のキリスト教事情に付き、カトリックとプロテスタントの話題にうつつを抜かし、上京四年もの時、神田駿河台のニコライ堂を目にしながら、正教会が目に入らぬ不備は、如何ともし難い。

で、カトリック作家の遠藤周作等のいふ処の母なる宗教カトリックではなく、「正教会」もまた母なる宗教と、わたしには見えた。新日本紀行に映る聖職者は、極めて日本的な日本人の司祭であつた。

更めて、プロテスタントを語る前に、カトリック教会と東方正教会を学習しなくては、学生諸君の前に立てる訳もなく、恥ずかしさと共に、痛くわたしの不備を思つた。

だが、ロシア正教会の属するコンスタンチノープル総主教庁が、一国一教会としていることに基づき、数年前ロシア正教会からのウクライナ正教会独立を認めた事を、ロシア正教会はこれを認めず、総主教庁と今も断絶してゐる。

ロシアがウクライナを国として認めぬプーチンの主張は、宗教戦争の様相でもある。

ロシア正教会総主教キリルが、教会にプーチン肖像の掲示指示は、聖人プーチンの誕生の目論見といへる。

   〇

今、ウクライナ戦禍に、妻子を疎開させ、祖国防衛の決意を堅くする、兵士の士気高揚を取材する映像は、大東亜戦に父出征の後、空襲を避け、都心から郊外へ、親族皆で疎開する模様を語る、母を想ひ出す。が、わたしは、英霊奉斎社にかかはる者として、父達兵士の心情が、その祖国防衛の決意は、わが「いのち」より大切な「いのち」を護る事の他に、他事無きを確信する兵士の姿を、ウクライナのニュース映像に、確りと「英霊」の姿を認めた。

つづく

神社周辺の小さな小さな名物(笠井剛)

近年、愛知縣護國神社周辺が密かに小さな観察スポットとなっている。

それはヒメボタルの観察である。「名古屋のど真中でホタル?」と耳を疑うのも無理はない。ホタルと言えば、ゲンジボタル・ヘイケボタルが有名であり、清流に生息するイメージがある。しかし、ヒメボタルは陸生で、体長は五~九ミリメートルと、他のホタルに比べてごく小さい。本州・四国・九州に分布し、ほぼ全国で見られるホタルであるが、人が夜に踏み入れない山林に生息し、生態が不明なことも多いという。

現在、「名古屋城外堀ヒメボタルを受け継ぐ者たち」という団体によってヒメボタルの生態調査が境内及び周辺で行われている。都会の中の生息地という環境から、先生を招き、幼虫から成虫の調査、生息環境の調査と一年を通して活動し、時には社務所が活動拠点になることも。また、昨年名古屋で開催されたCOP10(生物多様性条約)国際会議場で専用ブースを設け、様々な活動を行った。

境内や名古屋城外堀周辺で五月から七月にかけて、ホタルを見つけることができる。この時期の宿直の時、深夜境内及び外堀付近を訪ねると、「チカチカ」とフラッシュ状の小刻みな光を出す無数のヒメボタルを観測することができる。近年「名古屋城外堀ヒメボタルを受け継ぐ者たち」の活動の成果でたくさんの見学者が夜中に訪れ、全国的に見ても名古屋城外堀周辺が有名な観察スポットとなっている。近所に住む参拝者にその話題をすると、「昔はお堀周辺にもっとたくさんのホタルがいて、きれいだった」と言われ、昔からの生息地とのこと。観察スポットとなるまで知らず、まさに灯台下暗しという情況である。

ヒメボタルは、卵から成虫までおおよそ一年で、成虫の寿命は一・二週間とのこと。ホタルの光を見ると、何か物悲しく感じる一面、人の心を和ませてくれる。まさに癒しの空間となる。

ホタルは古くから夏の風物詩となっている。清少納言の「枕草子」第一段に、

 夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ、ほたるの多く飛びちがひたる。
 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。

とあり、古来より日本文化の関わりが深い。

自然との共生と言われるが、いつまでもヒメボタルの生息地として残ってほしい。また、ホタルを愛で、優雅な心を分かち合える日本人で在り続けたい。

結婚式での出来事(鈴木崇友樹)

ある日の神社での出来事。巫子から聞いた話。
「国旗をはずしてもらってもいいですか?」
結婚式の新郎であるスウェーデン人がそう言ったそうだ。
彼の言い分は、祖国スウェーデンの国旗が無くて、日本の国旗だけがかかってる部屋は、自分の結婚式の控室としては相応しくないとのこと。
国旗はただの飾りではない。この考えに異論はない。
しかし、彼が国旗に敬意を持っているといえるのか。
日本の国土、しかも神社という場所で日の丸がかかっていたから外せという。本当に国旗に敬意を持っていれば、外せとはいわないだろう。
神社という場で望んで式を挙げるのだ。新婦は日本女性。
そこは日の丸がかかっていて当然の場所なのだ。結婚式の控室であって、“結婚式場”の控室ではない。ましてや神社にスウェーデン国旗があるはずはない。